ヨブ記34章

ヨブ記34章

<要約>

おはようございます。34章は、いくつか翻訳上の難しさのあるところです。わかりにくいところも多々あります。しかし、これを読み味わうながら、神の深い愛への信頼を掻き立てられる部分でもあることでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.ヨブの言い分は、不本意な結論をもたらす(34:1-9)

エリフは、ヨブの不満を二つに要約する。一つは、「わたしは正しい。神が私の正義を取り去った」(5節)。つまり、私は罪を犯したこともないのに、神によって不当に苦しめられているという。そして二つめに「神と親しんでも、それは人の役に立たない」(9節)。神と友になっても何もよいことはない、「神に祈ってどんな利益があるのか」(21:15)というわけである。エリフは、第一の不満に対してはこの34章において、第二の不満に対しては35章において、さらに詳しく答えていく。

まず、ヨブは、自分に対する神の取り扱いが正しくない、不正であると不満をもらした。しかしそれは、神に対して不当な結論をもたらすことになる、神の義を嘲る悪者どもと同じ言い方になるのだ、と警告する。ヨブの苦悩は、その通りかもしれないが、そのことを主張し続けることは、ヨブにとっても不本意な結論を引き出すことになる。

2.神に不正はない(34:10-22)

というのも神は公正であり、神に不正は絶対にないからである(10-12節)。神は創造者であり支配者である。神は無から有をお造りになる全能者である。その神は、ご自身がお造りになった宇宙の秩序を正しく維持されるお方である。神は、この地や世界を誰かに委ねられたわけではない。自らが最終決定者である(13節)。だからもし神が「思いを定め」この地を終わらせようとするならば、「すべての肉なるものは共に息絶え、人はちりに帰る」だろう(15節)。

エリフの最終決定者に対する信頼と崇敬を垣間見るところである。神は人間ではなく、最終的な権威を持つ正しい支配者であり、権力者である、と確信する。しかも、エリフは神の愛を見ている。神にえこひいきはない(19節)。というのも高貴な者も、貧しい者も皆、神の御手による、神は万人の父であるという。だから、彼らに不正があれば、神がその者を、人手によらず、何もできない夜中の内に取り去るのである(20節)。「神の御目が人の道の上にあり、その歩みをすべて見ている」(21節)。神に隠されるものはない(22節)。

3.神の裁きに間違いはない(34:23-30)

神は、裁判を必要としない(23節)。取り調べの必要もない(24節)。とういのも神は全てを、御存知だからだ。長い審理にかける必要もなく、迅速に判決を下し、悪者どもを夜の夜中に突如滅ぼされるのである(25節)。神は悪者の悪を明らかにし、これを隠されず、ご自身が正義であることを誰の目にも明らかにされる(26節)。弱い者の叫びを聞き洩らさず、苦しむ者を見過ごされることはない(28節)。だからこう心得るべきである。もし、神が黙っておられ、何かが不当に行われているように思われるならば、その時は、神が成り行きを見守っておられるのだ、と考えるべきなのだろう。神はご自分の時を心得ている。神のなさることは人間の理解を超えている。神が沈黙される時は、その沈黙に漂い、神がなさろうとされることを最後まで見守ることだ。神を信頼し、神を咎めるようなことがあってはならない。エステル記のハマンの例がそうであるように、ハマンの悪に苦しめられる人々が、その希望を失いかけても、ハマンの罠は決して完成することはなかった。神を敬わないハマンが、支配者になることも、ユダヤ人やモルデカイを罠にかけてこれを滅ぼしつくすこともできなかったように(30節)。神は一つの国民としてだけではなく、また一人の人を見ておられる。神は一人一人の魂に責任のある創造者であり、父なのであって、神の善意は、決して狂うことはないと心得るべきである(29節)。

4.下手なことを言わないように(34:31-37)

神は、私たちにはわからない理由で物事を遅らせることがある。死に瀕し、緊急を要するラザロの下への訪問が四日後であったように。私たちにはわからない理由がある。そしてたとえば、ある悪人が、懲らしめを受けた、自分はなんという人生を歩んできたのか。もう悪いことはしないし、神の再教育によって新しい道を歩みたい、と願ったのなら(32節)、それでもあなたは、そんなのはダメだ。黒は黒、白は白、きっちりと裁くべきだと主張し、神もそうだ、あなたを苦しめたのだからそうしよう、と言うだろうか(33節)。神は罪の告白と悔い改めを喜ぶのに、あなたは、白黒をはっきりさせて報復することを求めるのか。それがあなたの考えかもしれないが、私は違う。あなたの考えを言ってみてはどうか(33節)とエリフは言う。良識のある人たちは、私のことばに賛同するだろう(34節)。というのも、これまで、三人の友は、あなたが何か罪を犯したと言うことを前提にあなたに悔い改めを求めてきたが、私は違う。私は、それが確かであるかどうかはわからない。しかしあなたの弁明に正しさがない、と言おう。あなたの言うことは、結果神を不当呼ばわりする者たちと同じものである。神に対して実に不適切なことを言っていること、この罪は明らかだろう。だから「ヨブが最後まで試されるように」(36節)その高慢が取り去られて、ヨブが謙るまで、徹底的に神に試みられるように、という。

ヨブには、確かに、不当な人生はなかったかもしれない。しかし、神の前に多くを語りすぎることで、結果神の善である確信を投げ打ち、神に不当な汚名を着せてしまった事実は明らかになったのである。イエスは、十字架上で多くを語らなかった。イエスが黙して語らなかったところに、またご自分の置かれた状況と使命を意識し「完了した」、と語るところに、イエスの人格の完璧さがある。イエスに倣うということは、そのような部分なのであろう。神のしもべとして、いつでも静かに、物事の先行きを見守り、神のなさることを、感謝を持って受け止めていく、これが私たちの進むべき道である。つまり、神を神として認めていく、そのお方は私たちの一人一人の歩みに目をとめ、私たちに責任を取られる最終的な権威者として認めていく、ことが大切なのだ。

 

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