ルカの福音書16章

不正な管理人の話は、放蕩息子の話の続きである。というのも放蕩息子の話では、兄は、自分のため、自分の富のために働いていた。不正な管理人は同じように富のために働いていたが、ある事件を契機に、これを自分の救いのために利用する。大切なのは、与えられている富をどのように用いるか、それを考えさせてくれる、物語なのである。

ある金持ちに一人の管理人がいた。主人の財産を乱費していることが発覚し、主人は会計報告を出させて解雇することにした。しかし彼は主人の権限を使って、自分が首になった時のために戦略的に動いたのである。何をしたのか?地主に支払われる地代は、しばしば金ではなく物品で、つまり借地から収穫したもので支払われた。利子は決められていて、オリーブ油の場合、利子が80%それに作物相場の変動リスクとして20%を加えた合計100が加えられた。つまり返済する時は2倍にして返すわけである。それが油100バテ(4000リットル)を50バテ(2000リットル)にするというのは無利子にすることである。小麦の場合も同様で、小麦は、利子が20%、それに作物相場の変動リスク5%を加えて合計で25%を加えた。だから小麦100コル(40000リットル)を80コル(32000リットル)というのも、ほとんど無利子になる。ちなみにそれぞれ、油はオリーブ146本分の収穫、小麦は約100エーカー分の収穫ということで、かなりの収穫高である。

ところで、ユダヤ人は仲間のユダヤ人に金銭を課した場合、仲間から利息を取るのを禁じられていた。となれば、この不正な管理人は、ただ利息を無利子にしたのではなく、主人の不正を摘発して、その不正を正したということになる。だから、この主人はただ管理人の抜け目のなさを褒めたわけではなく、自分の不正が暴かれるぎりぎりの状況の中で、管理人を褒めることで、自分も敬虔な人であるという評判を保とうとした、ということになる。両者とも困難な状況の中で、果敢に振る舞った、ということになる。だから、イエスが言いたかったことは、この果敢さである。結論的には、放蕩息子のたとえに続くものとして富を自己満足のためにではなく、霊的な事柄のために、正しく用いることを勧めているのであるが、ルカは、さらに小エピソードを続けている。つまり、何に心を、果敢な情熱を傾けていくか、そこに注意を向けさせようとしている。

結局ここでルカが記録するのは、イエスの律法理解である。イエスは、福音が注目され、誰もが福音に向かう時代が来るとしても、律法は依然として有効であるとした。イエスが批判したのは、律法を解釈する方法、特にパリサイ人による解釈の方法である。パリサイ人は、ほんの些細な理由で男が離婚することを許可した。しかし、律法に従えば、それはありえないことであった。神が定めた結婚は、守られるべきものなのである。つまり当時のパリサイ人が、都合よく律法を解釈し、律法を律法として解釈しない、あるいは神のことばにしっかり心を向けていない状況を指摘されたのである。それは今日のキリスト者についても言えることだろう。今日のキリスト者も聖書について書かれたものは読むが、聖書そのものを丹念に読むことはない。ずれた聖書解釈の書を読んでいれば、結局信仰生活もずれていく。そしてそのような人の人生はずれたものに熱心となり、この世の人々と何ら変わらない人生へと堕していくのである。何に果敢な心を向けていくか、これは極めて重要である。

続く、ラザロと金持ちの話は、そういう意味で、私たちの生き方の軸を、神のことばに向けて正すものであり、連続している。やはり、私たちに永遠の神の前にやがて立つ、という信仰がなくなると、人間はどうも神に財も時間も才能も委ねられた管理者であるという意識が薄くなってしまう。そして自己目的に生きることをよしとしてしまう。しかしその信仰を保つものは、まさに神の言葉に他ならない。だから、金持ちのこの惨めな結末は、富をどのように用いたかというよりも、モーセと預言者に、つまり律法を無視したことにあるとしているのである(29,31節)。パリサイ人は、すでに律法を手にしていた。しかし彼らは先祖の言い伝えを優先し、手にしていたものを正しく受け止めようとしなかった。既に述べたように、キリスト者も同じ危険にあることを理解すべきだろう。

なお、日本人の場合、死後の世界観を持つ人は多いが、その死後の世界はこの世の延長に過ぎない。死後に、神の御前に立ち全ての帳尻が合わせられるという考えはない。だから死後に何か不足することがあれば、この世でそれを満たすことができるとすら考えることもある。それが追善供養の意味でもある。追善供養は、死者が十の冥界を彷徨う中で無事成仏できるように、遺族が助ける試みであるが、聖書は、この物語を通して、死者の世界に介入できるものはなにもないと言っている。死者の世界と生ける者の世界は全く別物である、と。死後の運命は今この世で自ら決めるのである。だから、今悔い改めて世の富を正しく用いていく、そればかりではない、世の富を正しく用いていくように私たちを整え、またそのように教えるイエスを正しく理解させる聖書にこそ、しっかりと心を留めていく。それが全てであることをもう一度、私たちはこの章を通して教えられる。

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