9章 神の誠実さにひれ伏す
<要約>
おはようございます。捕囚帰還の民の礼拝がいかに形作られたか、彼らは歴代誌を読みながら、自らの礼拝の再興を教えられていったと思いますが、実際に彼らの礼拝は、自らの歴史を振り返り、自分たちに誠実であり続けた神を覚えるところから始まったのです。神の存在とその誠実さを知ることが、真の礼拝の第一歩というべきでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.神を礼拝する
イスラエル人は断食をし、荒布を着け、土をかぶって集まった。自分たちの罪と先祖の咎を告白した。立ったままで昼の四分の一は律法の書を朗読し、次の四分の一は、告白をして、彼らの神、主を礼拝した。
こうして大いなる悔改めが起こった。彼らはイスラエルの歴史を振り返り、そこにあらわされた神の恵みと忍耐と祝福について語っている。しかしなぜ、一日中、聖書を読み、告白し、礼拝をするようなことが起こったのか。それは、60年ぶりに、イスラエルが再興された事実、神が真実を尽くし、自分たちを回復させてくれた事実を認めざるを得なかったためなのだろう。彼らは自分たちに誠実な神の存在に目覚めたのである。
捕囚によって奴隷となった彼らに、祖国エルサレムの城壁や神殿を再建し、主への礼拝を復興する望みはありえなかった。しかしそれが起こった。神は、彼らを滅ぼし尽くさず、あわれみを示された。主は契約と恵みを守り、彼らを再生し、ご自身の真実を示されたのである。神を不真実と思うところに悔改めは起こらない。神を不誠実と思うところに真の礼拝はない。神の誠実さを認めていくところに、礼拝が生じる。
2.神への祈り
6節以降、彼らが具体的にどのように神を認めたのかを教えられる祈りである。彼らは自分たちの歴史の中に、神を認めた。神は創造の神である(6節)。また神は選びの神である(7節)。そして神は契約を結び、約束を果たされる神である(8節)。それは具体的にまず出エジプトという歴史的な出来事を通じて現された(9-23節)。カナンの地への入植は、まさに、神の約束の実現に他ならない。私たちの神は、「契約と恵みを守られる、大いなる、力強い、恐るべき神」(32節)なのである。
だが、しばしば私たちの現実はそうではない。イスラエルの歴史がそうであるように、苦難が襲い掛かれば、私たちは神の約束を信じ続けることができない。一息つく順調な時には、神に背を向けて、神の前に悪事を行ってしまう(28節)。私たちは、不真実であり、自分に都合よく神を利用する者である。
その現実をはっきり認めて、神の前にひれ伏し、自分を無にするのが礼拝である。今彼らは、礼拝を再興し、イスラエルの民としての歩みを再出発しようとしていた。しかしそれが始まりであり、これからが神のあわれみと力を必要とするところであった。だから彼らは祈る。私たちは今、非常な苦しみの中にいる、と。彼らはすでに解放されたわけではない。まだ解放の途上であった。苦しみから解放されるのは、まだ先のことである。だからこそ神のあわれみと力を祈り求めたのでる。
ただ興味深いことに、そこで彼らは、いよいよ具体的に解放されることを祈っているわけではない。むしろ、自らの不義と苦しみを認め、いよいよ神との堅い盟約に生きることを決意している。救いを願っている間は、まだ本当の悔い改めではないのだろう。真の悔い改めはまず、主への従順を決意し、自らの命を主に委ねるのである。