ヘブル人への手紙10章

ヘブル人への手紙10章 永遠に新しくされた関係
1.イエスによる新しい方法(10:1-18)
 ヘブルの著者は、旧約聖書の知識を持ったユダヤ人を前提にして、この手紙を書いています。ですから、律法、いけにえ、モーセといった旧約聖書にあるキーワードが、いくつも出てきて、イスラエルの文化に馴染んでいない、現代の私たちには、ちんぷんかんぷんに思われるところが多々あることでしょう。私は聖書が面白くなるには、ある程度蓄積が必要と思っています。ある程度わからないとその面白さも実感できてこない。でも、それは聖書通読だけではありませんね。音楽にしても、スポーツにしても、ある程度やってみないと、本当に引き込まれるような楽しみは、実感できないでしょう。新約聖書も残すところ、後1か月分、忍耐を持って、読みこなしてまいりましょうね。
 さて、著者は言います1節「律法は来るべきものの影はあっても、その実物はありません」簡単に言えば、神に近付く方法として旧約時代に与えられたのは律法、神の戒めを守ること。しかしそれは、実質神に近付く方法にはならなかった、ということでしょう。「ですから、律法は、いけにえによって神に近付く人々を、完全にすることができません」というわけです。実際、いくら律法に基づいていけにえをささげて、それで罪が赦されると言われても、罪意識はなくならなかったし、それで罪が取り除かれることもなく、いけにえは、延々と繰り返しささげられるだけであった、というわけです。神様ご自身も、それを喜ぶわけはない、と。そこで、9節、第二のものが立てられるに至った。つまり、イエス・キリストの十字架である。10節、イエスのからだが、ただ一度だけ、献げられたことにより、私たちは聖なるものとされる、ということが行われたのだ、というわけです。イエスの十字架は、永遠の罪の赦しを提供するもので、神はそれによって、「もはや彼らの罪と不法を思い起こさない」と約束してくれるものだった。イエスはご自分の体によって、神に近付く新しい道を開いてくださったのだ、というわけです。
2.神に近づける恵みに基づく勧め(10:22-39)
 このように、神に近付く新しい方法が確立され、実際にそれが有効となったのだから、まず、22節、信仰を持って、神に近付こうではないか、と問いかけます。以降、著者は、人が神に近づけることは確実なのだから、信仰を持って、これこれのことをしよう、と矢継ぎ早に、たくさんの勧めをしていますね。いくつか拾い読みをしてみましょう。24節、やはり社会に正義と平和をもたらす神に近付いて生きるのですから、「愛と善行を促しあいましょう」と言います。また、神を礼拝する者として、集会は休まないようにしましょう、と言います。というのも実際的な意味で神にお会いする日、終末の日は近付いているのですから、というわけです。26-31節、イエスにある罪の赦しの恵みをないがしろにしないようにしましょう。十字架の苦しみによって、私たちの罪が赦された、一人のいのちが犠牲にされたことの意味は大きいのです。罪の赦しの恵みを大事にし、もはや罪を犯さないようにしましょう、と言います。34節、また、主にあって苦しんだ日々を忘れず、同じように苦しめられている人々に思いやりを持ちましょう、と言います。確かに信仰は、自分の救いだけのお話ではありません。全ての人が救われるための祈りを必要とするのです。また何事も忍耐。忍耐を持って、神の救いの完成を待ち望みましょう、と言います。私たちは臆病者ではなく、神を信じる者、神のいのちに生きる者です、と。信仰に生きるというのは実に前向きなことですね。それは宗教ぽく生きることととは違うことです。人間として実を結ぶような生き方をすることではないでしょうか。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズです。「旧約時代、神殿では、全部で何種類のささげ物がささげられたでしょうか?」答えは五種類です。旧約聖書のレビ記には、全焼のささげ物、穀物のささげ物、交わりのいけにえ、罪のきよめのささげ物、代償のささげ物の五種類が定められています。では、今日の聖書クイズを一つ。聖書で一番最初に神にささげ物を献げた人は、誰でしょうか?答えは、また明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

<天草さんのフォローアップ>
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