レビ記4章

4章 罪のためのいけにえ
 皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。今日はレビ記4章、罪のきよめのささげ物です。かつては全焼のささげ物に含められていたものが、モーセの時代に分化されて、その意図が明確にされています。その意図をよく考える時に、人類が素晴らしい祝福にあることを思わされるところです。それでは、今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

1.ささげ物の位置づけ
 先の全焼のささげ物にしても、まじわりのささげ物にしても、必ずその祭儀儀式の中には、罪の贖いに始まる部分があった。しかしどちらのささげ物も、その中心は罪の贖いにあるのではない。それらのささげ物は、特定の犯罪行為と結びつくものではなかったし、そのためにささげられる物でもなかった。つまり、私たちが神と交わりを持つ前に、贖いを要するという私たちの状態を踏まえた手順が加えられていたのである。
 しかし、このささげ物は、あるはっきりとした犯行のために、つまり特定の罪の赦しを意識して定められたものである(4:1-5:13)。しかも、アブラハム、ノア、ヨブの時代には、このようなささげ物はなかった。彼らのささげ物は全焼のいけにえに代表されるものであり、モーセの時代、五種類のささげ物に分化し、さらに今日と明日読む、二つのささげ物、罪のきよめのささげ物と代償のささげ物は、私たちの日常性の中に特定の事柄、罪の赦しのためには、なだめがなければならない、という精神を最も明確に表すそなえ物として新設されたと言ってもよいだろう。そして、このささげ物が定められたためにこそ、私たちは、多くの安堵と、主の恵みを深く思うのである。
今日読み進む、罪のきよめのささげ物は、まさにキリスト教というのは赦しの宗教であることを改めて思わされるものである。過って罪を犯した場合、無知の故に、衝動性の故に、あるいは無意識の故に犯してしまった罪については、罪のためのいけにえによって神の完全な赦しを受けることができる、と聖書は語る。
 長い人生の歩みの中で、私たちは自分の罪深さを思うことがあるだろう。普通は、そのような罪深さを思っても、あまり深く考えないようにするものだろう。むしろ人はそのような罪深い者なのだから、過ちにまで拘ってもしょうがない、と思うものではないか。自分の罪がわかるというのは、心の成熟の故でもあるのだが、あんなことをして人に迷惑をかけた、傷つけた、配慮がなかった、そんなことをまともに考え始めたら、実際やっていけないし、人間破綻する他ない。だから人は、ある意味で、学歴や地位や身分、家柄によって、そんな弱い自分たちの現実を覆い隠そうとするのだし、それらが全く通じない現実に直面すると、恐れ退く以外にないのである。
しかし、聖書は、それは真に私たちを大事にされる神と出会う大切な瞬間であることを示す。神は私たちの学歴も、財力も、容貌も全く問題にはされない。神は、私たちが自ら受け入れがたい、私たちの心の現実と向かい合われる。私たちは自分が裸で何も持たない者であり、愚かさと無知と衝動性に塗ったくられた生涯を送ってきたことを考えると、自分を呪いたくなることもあるのだが、神は呪われるのではなく赦される、という。いかに罪深い人生を歩んできたかということに気づいて、もはや自分の人生に祝福などあり得ない、受けるべき罰をできるだけ軽くしてもらい、罪滅ぼし的な人生を送ることが、ふさわしいのだと思われる時も、後ろ向きになってはいけない。むしろ、聖書は、罪のためのいけにえを持ち来たれ、罪は赦されるのだから、と言う。神は、赦される。神は、清算される。私たちはいつまでも、自分で自分を赦せずにいることが多く決着がつけられないが、神はそうではない。しかも、罪のためのいけにえはすでにささげられている。つまり、キリストである。キリストのいけにえが、私たちの罪を赦すのである(ヘブル10:19)。
2.罪のきよめのささげ物の種類
 罪のきよめのささげ物は、その置かれた立場によってささげるべきものが違う。油注がれた祭司(3-12節)、全会衆(13-21節)、上に立つ者(22-26節)、一般の人々(4:27-5:16節)と、四種類に分けられる。油注がれた祭司は、傷のない若い雄牛。全会衆は若い雄牛、上に立つ者は傷のない雄やぎ、一般の人は、それぞれの能力に応じて雌やぎ,雌羊、山鳩二羽、家鳩の雛、細かな麦粉とされる。それらの違いは、罪を犯した人の身分と能力に応じて、それだけ高価なささげ物が必要とされていることを意味している。油注がれた祭司のささげ物は、全会衆のささげ物に相当する。それは、祭司が全国民を代表し、宗教的権威の高い地位にある人の罪の結果は、事柄の性質上他の人物の場合よりもはるかに深刻であることを意味する。また上に立つ者、国家の為政者の犯す罪も私的個人の罪よりも重い。また逆に身分が低いからといって罪が見過ごされることもない。富める者も貧しい者も、神の前に罪は決して見過ごされない。が、同時に罪は、必ずささげ物によって赦される。そこに私たちの信じる神の恵みが語られている。
3.罪のきよめのささげ物の祭儀手順の特徴と意味
 それぞれの立場のささげ物の手順に共通するのは、血の注ぎである。しかも立場によって、祭壇に塗る場合と(25、30節)、それでは済まず会見の天幕に入り、聖所の垂れ幕に向けて血の注ぎを行い、香りの高い香の祭壇の四隅の角に血を塗ることの二段階がある(6、17節)。つまり立場が重ければ重いほど、聖所の中にまで血注ぎの行為が深められた、ということだ。確かに祭司は、一般の人よりも神に近づける特別な立場にあった、だから、彼の罪は、聖所そのものを汚したと見なされ、彼の立場が回復されるためには、その場所で血塗り、血注ぎの行為が必要だったのである。そして神のあわれみの契約が完全であることを示すために、完全数である七にちなんで、七度血が注がれた。
大切なのは、先に述べたように、今日の私たちは、これらのささげ物を全く必要としない。ヘブルの著者が言うとおりである。「雄牛と雄やぎの血は、罪を除くことができないからです。…イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。…一つのささげものによって永遠に完成されたからです」(ヘブル10:4,10,14)罪の赦しのために永遠の効力を持つキリストがささげ物としてささげられた、という。ペテロが言うように、私たちは、神の前に祭司である(1ペテロ2:9)。だから、立場上、当時のささげ物であれば、傷のない若い雄牛に相当する、最も高価ないけにえがささげられた、と考えるべきだろう。そして、順序を間違えてはいけない。神は犠牲動物があるがゆえに、私たちを赦し愛されているわけではない。神はまず私たちを愛して、私たちの罪の赦しのためにキリストを犠牲にすることをよしとされたので、キリストのささげ物がささげられたのである。だから、私たちは彼らが祭儀手順でそうしたように、キリスト(傷のない若い雄牛)の頭に信仰の手を伸ばし、按手し、キリストを自分の罪のきよめのささげ物として、神にささげることができるし、要求されている。それは、一度の行為で、永遠の効力を持つものとなる。どうしてこれを拒むことができるだろうか。
人は罪の償いを要求し、いつまでも他人の犯した罪を忘れない。神も罪の償いを要求されるが、永遠の完全なささげ物であるキリストを携えて、罪の赦しを求めよと勧められている。キリストご自身が傷のない自らをささげられたことで、私たちの完全な罪の赦しと聖めが実現し、私たちは生ける神に仕えることが許されている。神の前に罪を告白し、希望をもって、神と共に歩む新しい人生をしっかりと歩ませいただこう。

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