出エジプト記9章

疫病、腫物、雹三つの災いが連続してくだされる。これまでの裁きと異なり、これらの災いは、エジプト人とイスラエル人をはっきりと区別し、エジプト人のみを苦しめるものとなった。第五の疫病の災いは、炭素菌による黒い膿瘍だったと考えられている。それは、田畑で腐敗している山と積まれた蛙の死骸と病原菌をまき散らすハエによって広く拡散する災いになったのだろう。しかも「馬、ろば、らくだ、牛、羊」は、エジプト人にとって神聖な動物であるのみならず大切な家畜、つまり財産でもあった。ただエジプトの農業は、多角的なものであったから、彼らの財産が完全に奪われる破壊的な打撃は、次章のいなごの災いによってもたらされるのである。それはまさに、強制労働によってエジプト人がイスラエル人から搾取したことへの報いとなったのである。
第六の災いは、急速に伝染する病気をもたらした。それは、呪法師たちにも感染し、具体的に今でもみられる「ナイル疥癬」もしくは、熱帯地域にみられる発疹性の皮疹である「紅色汗疹」と考えられている。第七の災いは、極めて激しい雹であり、こうした突然のしかも破壊的な嵐は西アジアには珍しいことではなかった。
問題は、これらが指導者の強情さの故に、またその愚かさの故にもたらされたことである。だが、国家のみならず、会社組織であれ、家族であれ、長の度量がその配下の安寧を守るものだろう。「今度は、私は罪を犯した。主は正しいお方だ。私と私の民は悪者だ」(27節)ファラオは自分の罪を悔い改めた。モーセは、この悔い改めが本物ではないことをよく理解していた(30節)。しかしそうであっても、いつまでも長の愚かさの故にエジプト人が苦しめられることを見るのは忍びないことであったのだろう。モーセは神に従って、神の命のなすままに災いをもたらしたが、もはやその必要なしとなれば、即座に人間の側に立って、これを終わらせている。神の人は、常に、神の命に従順であるが、それは、心通わぬ神の道具と化すことではない。アブラハムが、ソドムとゴモラに災いを下されようとした神に交渉したように、人の弱さと愚かさを思いやり、人の守り手となろうとする人であればこそ、神もまた、ご自身の裁きの器として用いられるのだろう。神は愛の方である。愛の裁きであることが通じる器をこそ、ご自身の器として用いられるのである。
また、神は、モーセをご自身の器として用いられ始めている。最初は、アロンがあなたとともにいる、とアロンがモーセの代弁者として用いられていたが、今や、ファラオの前に立ち、ファラオに答えるのはモーセ自身である。言葉の人ではなく、舌が重いと語るモーセはいつの間にか、ファラオの前で、巧みに神の命を伝え、ファラオの問題を指摘し、神の器として働いている。モーセは夢にも思わなかった働きをこなしている自分を認めざるを得なかったことであろう。
本来、神に仕えるというのはそういうことである。神は、私たちを、身体的、精神的、言語的限界にいつまでも留めておくお方ではない。私たちに予期せぬ力を与え、用いてくださる。事実、新約聖書には聖霊の賜物という考え方が出てくる。神が信じる者に、ご自身の働きに与らせるために親譲りの才能ではなく、それこそ神譲りの賜物を与えてくださる、という。信仰者はこれをどこまで意識しているのだろうか。言ってみれば、人がその人生の半ばを当に過ぎてしまったとしても、神は、ご自身の新たな能力を備えて、その人を輝かせてくださる。自分に与えられた賜物を思うこともなく、ただ、いつまでも無力・無能な自分を思っていることはないだろうか。人間は過去の記憶の中に生きると言われるが、かつての軽はずみな行動がトラウマとなり、いつまでも、前向きになれない思いでいる人も多い。しかし神はそのトラウマをも砕いてくださる。神のことばに従順となる、それが、モーセが用いられた秘訣である。
聖書を読み、神がみこころとして示してくださることを受け止め従うならば、神が私たちを予期せぬ歩みへと導いてくださる。神に従うというのは大きく派手なことではない。それは、毎朝、神の前に出て、神に聴き、人々のために祈る、それこそ隠れた地味なものであったりする。しかし、神がみこころとして示す一事を頑なに守っていく、ところに、神の祝福がある。
他方、ファラオに対して、神は、16節「このことのために、わたしはあなたを立てておいた」と言う。つまり「あなたを生かしておいた」ということだろう。新約において使徒パウロは、この言葉を引用し、ユダヤ人に対する神のあわれみを語る。神は恵みの神であり、その災いもまた神の憐れみを示し、悔い改めの機会を与えようとするものであった。神は、ファラオもエジプト人も寛大に扱われたのであり、一思いに処罰はされなかったのである。28節、「神の雷」は、ヘブル語の文字通りには「神の声」と読むことができる。確かに聖書では「雷」は神の声の象徴とされている。「神の声と雹はたくさんだ」というのは、まさに神が裁きの中で語っておられることを言う。しかし、ファラオは頑な心のままであった。神は、ファラオを頑ななままにさせた。結果、人の心を頑なにするのも神である。神の前に頑なであってよいこと、そうでないことがあると言うべきだろう。

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