35章 レビ族に与えられた町、逃れの町の意義
<要約>
皆さんおはようございます。昨日に続き、土地分配の定めが記されますが、ここではレビに与えられた町と、その中に設けられた逃れの町について説明されるところです。大切なのは、その町の機能を語りながら、レビ族の役割が再確認されているところでしょう。彼らは祈りのとりなしのみならず、その死においても、主イエスの働きをあらかじめ語る存在であり、私たちの模範です。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.レビ族に与えられた町(35:1-8)
土地の境界が定められ、分配され(34章)、ここではレビ族の住む領地が規定される。レビ族は、神殿に仕える特別な使命を持ち、相続地を持つことを許されなかった(18:20、23-24)。そして生活は、他の部族によって支えられるようになっていた。一般信徒は、自分たちの生産物の十分の一をレビ人に与えるように教えられている(18:21-24)。しかしながら、レビ族は、実際上、住むための土地を必要としていたので、小さな町の城壁から東西南北に一千キュビトずつの、約二千キュビトの方形の土地が、信徒の善意によって提供されるように教えられた。イスラエルの民は、レビ人の働きと生活を、支えられるように教えられた。それは新約においても変わらない。神の民は、神の働きのために献身する者たちの生活を考えなくてはならない。
ところで、レビ族に与えられた放牧地の広さは、理解しがたい。町の城壁から外側に「回り一千キュビト」とあるが(4節)、これは、素直に新改訳を読むと、町の城壁の外側から東、西、南、北に向かってそれぞれ一千キュビトの幅があり、町を真ん中にして東、西、南、北にそれぞれ二千キュビト(5節)、つまり二千キュビト四方の町を囲む総面積は四千キュビト四方の放牧地と理解される。これは町が相当小さくなければ、成り立ちえない計算である。ただ、当時の町は、それほど大きくなかったことは確かである。今日の日本のように、過密な住宅街が続くようなイメージではない。イスラエルには、小さなテル(集落の古址)が点在しており、そのような時代のお話である。なお、新共同訳は、単位に「アンマ」を使っているが、これは、ヘブル語のアマーの音訳で、新改訳のキュビトは、英語の音訳で口語訳を継承している。ギリシャ語七十人訳の音訳ならペーキュスとなるからである(ただし創世記6:15のアマーのギリシャ語訳はキュビト)。このあたりはどのように訳し分けているのか、よくわからない。ともあれ、キュビトは、おおよそ、肘を曲げた時の角から中指の先までの長さで44センチであるから、一千キュビトは約450メートルとなる。
2.逃れの町(35:9-34)
続いて逃れの町について。聖書は殺人者を極刑に処するように規定しているが、過失致死の場合には、逃れの町が用意された。それは、レビ人に与えられる町の中に指定され、6節によれば、六つの町がある。
1)逃れの町に入ることの意義
神は、意図的な殺人と過失殺人を区別されている。意図的な殺人は、凶器の性質(鉄の器具で人を打つ、人を殺せるほどの石や木製の道具で人を打つ)や殺意のあるなし(憎しみ、悪意、敵意によって人を打つ)によって判断された。聖書は「殺人者は必ず殺されなければならない」と死刑を認める。しかし、誤って人を殺めてしまった人たちについては、自らの手で裁きを下そうと復讐心に燃えた家族から保護する仕組みが設けられた。過失殺人者は、近くの逃れの町に逃げ込んで、正当な審判を受けることが許された。ただ興味深い規定は、過失殺人者は大祭司が死ぬまで、その逃れの町に住んでいなければならなかった点である。大祭司が死ぬことにより、彼は自由を得るのであるが、それは大祭司の死により血を流した罪が贖われるという理解のためである。これはイエスの十字架の予表である。ヘブルの著者は言う。「前に置かれている望みを捕らえようとして逃れて来た私たちが、約束と誓いという変わらない二つのものによって、力強い励ましを受けるためです」(ヘブル6:18)。神の前に罪人であることを覚え、逃れの町に逃れるならば、私たちは匿われる。しかしそればかりではない、大祭司イエスの十字架の死は、私たちを逃れの町の中にあって、永遠に自由な者として解放するのである。
神が意図的な殺人と過失殺人を区別されたように、私たちは意図的に罪を犯すばかりか無意識のうちに、それと知らずに罪を犯すことが多い。そして神と共に信仰の歩みを進めるにつれ、霊的な感性も研ぎ澄まされ、自分の罪深さを一層教えられることが多い。しかし、神はそのような私たちをわかった上で、キリストの十字架の死にあって私たちを受け入れ、私たちの罪を赦し、私たちを自由な者としてくださっている。
2)レビ部族の使命:贖い
なお、この逃れの町の趣旨は、神の宿るイスラエルの聖なる地を流血による汚れから守ることにある(34節)。血は、贖いの手段であり、罪人を清めるために用いられるものであるが、地を汚す逆効果をもたらすこともある。だから流血の罪が起こった時には、特別の注意を払わなくてはならなかった。本章はそういう意味で、ただレビ部族に逃れの町が割り当てられたということを言うのみならず、その血の贖い方を教えている。古代オリエントでは、殺人者への報復として死刑の代わりに身代金を支払って示談にすることが認められていたが、ここでは、金銭による示談は認められておらず(31-32節)、故意の殺人者は処刑されなければならないし、過失による殺人者は大祭司が死ぬまで逃れの町に幽閉されること(16-25節)、万が一その殺人者が逃れの町を出たならどうなるのか(26-28節)が規定されている。死は死をもって償わなければならない、だから故意の殺人の場合は、殺人者の処刑が、過失による殺人の場合、大祭司の死が、罪人の罪を贖うのである。こうして、レビ部族は、民を罪から守り、贖いをする使命において、中心的な役割を果たすのである。彼らの働きはとりなしの祈りのみならず、死においても、イエスの働きを予表するものであった。私たちの生のみならず死もまた主の生涯を映し出すものであることを願うこととしよう。