アモス書2章

2章 選ばれた神の民への裁き

おはようございます。聖書の根本思想は、愛の実践で、その戒めを犯すことは、皆罪と言うべきです。神の裁きの根本に、深い愛の尺度がある点に注目したいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.モアブへの裁きのことば

昨日に続いて、周辺諸国、モアブに対する神の裁きが語られます。「三つの背き、四つの背きのゆえに」慣用的なフレーズで、多くの罪のために、を意味するのでしょう。モアブの罪は、「エドムの王の骨を焼いて灰にした」(1節)ことだとします。古代において死体を汚すことははなはだしい冒涜でした。というのも、魂と体は一体と考えられ、体を焼くことは、魂を破壊することと見なされたからです。神は、エドム人の感情を逆なでするようなモアブ人の行為を取り上げて、裁きを宣告されます。興味深いことは、死体を汚すことは冒涜であるという考え方は聖書には明文化されてはいないことです。しかし、神は、それを問題にされている。ということは、明文化されてはいないけれども、根本的な考え方の原則があって、それに沿って考えてみれば、モアブ人がしたことは神の忌み嫌われることなのだ、ということでしょう。では、その根本的な原則とは何かと言えば、それは神と人を愛するという聖書律法の根本精神の適用ということなのです。

そのような視点で改めて、1章のダマスコ、ガザ、ツロ、エドム、アンモンの罪を読み直してみると、確かに彼らの罪は、人を愛するという神の戒めを犯すものでした。ケリヨテは、モアブの代表的な都市であり、アモスはそこに宮殿があったと言います。モアブの王メシャの碑文によれば、そこにはモアブの神ケモシュの神殿があったとされます。神は人を人と思わぬ人達の集まるこの大都市を裁かれる、と宣告されるのです。

2.イスラエルとユダに対する裁き

4節以降は、選ばれた神の民、イスラエルとユダに対する裁きが語られます。神は、選ばれた民の罪を軽く見て、それ以外の民モアブは重く罰することはありません。というのも神はイスラエル民族の神ではなく、天地万物をお造りになり、これを治められる万人の神です。キリスト教の神も、佛教の神も、イスラム教の神もありません。キリスト教徒も、仏教徒も、イスラム教徒も支配しておられるまことの神ただお一人がおられるだけです。そして神がイスラエルを選ばれたのは、イスラエルが、そのまことの神を証しする存在となるためでしたが、神のみ教えを捨てて、掟を守らず、その使命を果たそうとしなかったユダに対して、神はその選びの責任を問われているのです(4節)。そのような意味で、今日のクリスチャンも同じ問いかけをなされていることに間違いはありません。神と人に愛をもって正しいことをなさる神を信じているというのに、その神のみ教えに生きようとしないならば、神の裁きが下るのは当然のことでしょう。神は生きておられるのです。しかもイスラエルは、何か良いところがあって選ばれたわけではありません。ただ神のあわれみによって、選ばれた「そうではなかったか」と神は問いかけられます(11節)。いつも自分がどこから救われたのかを思い出し、神に仕える者として、謙虚に歩ませていただきたいものです。

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