エズラ記9章

9章 雑婚の禁止

<要約>

おはようございます。雑婚の問題が取り上げられますが、その問題の本質は、民族の純粋性ではなく、信仰の純粋性を保つことにありました。信仰を同じくしえるかどうか、それは、生活上の衝突へとつながることであったからです。宗教的寛容性を重んじることと、宗教的確信を守ることは、別物です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.雑婚の問題

雑婚の問題が語られる。いわゆる異教の習慣に導く雑婚を罪とし、その罪を犯した者は、113人(10:18-43)とされるが、それは、誰のことなのか。いくつかの議論がある。ゼルバベルと共に帰還した者の子孫たちだったと考える説がある。そうすれば、雑婚をした者たちはまだ少ない人数であったことになる。しかし、普通に読めば、この箇所は、エズラと共に来た人々であろう。となれば、それはかなり多い人数であり、エズラは帰還の旅の途上四ヶ月も、毎日律法を教え、彼らと関わりながら、なぜそのようなことに気づかなかったのかという疑問も起こる。しかも、神殿再建の喜びの後で、思いがけない問題が沸き上がって来たことにもなる。

いずれにせよ、彼らはカナン人やヘテ人、つまりモーセの律法において、宗教的な純潔さを守るために結婚が禁じられている者たちと結婚をしていた。エズラはこの報告に対して、当時の慣習に従って嘆き、驚きを表現している。普通は髪をそるところをエズラは毛を引き抜いている。それはエズラの動揺の激しさを表している、と言うべきなのだろう。イスラエルの歴史は純粋な神信仰、つまり異教の偶像崇拝との戦いであった。彼らは異教の民と交わり、堕落し、神に滅ぼされ、バビロンに捕虜とされ国を失う苦渋を味わっている。そのような歴史に学んでいないイスラエルの民に対するエズラの失望、落胆、怒りが、その行為に表されているのだ。

2.問題の本質

ただ問題とされているのは、異教の民との雑婚そのものよりも、雑婚によってまことの信仰が失われる事態が生じていたところにある。雑婚については、ルツのような例外もある。実際上の問題は、その雑婚によって個人の信仰が破綻し、さらにイスラエルの民全体に悪影響を及ぼすことであった。エズラは歴史を振り返る。そもそも、イスラエルの国が滅びたのは、どういうわけか。それは、異教的信仰に毒されて、イスラエルが神を捨ててしまったからではないか(6節)。けれども、そのような私たちに神は、大いなる哀れみを施し、再び、国を再生させてくださったのである(9節)。その恵みを無駄にしてはいけない、というのが趣旨であった。

しばしば教会においては、未信者との結婚は、つりあわぬくびきであると反対されることが多い。その根拠は、1コリント7:39を挙げることが多いが、この箇所がそのようなことを語っているかどうかは、また様々な議論のあるところだが、むしろそれは常識的に考えて、信仰者と未信者とではもともと生き方のベクトルが違うところを考慮する、人間の知恵による判断に負うところがある。一方は、天国を目指し永遠のいのちの希望を持って歩み、他方は神に背を向けて滅びに向かって歩んでいる、生き方のベクトルが違うのだ、そこに反対があるのも無理はない。初めは些細な違いと考えてしまう信仰の違いも、実際に結婚生活をスタートさせてみれば、毎週日曜日の過ごし方の違いから始まり、お金の使い方、子育ての考え方、将来設計の考え方、余暇の過ごし方とありとあらゆる日常性の中でその価値観の違いや行動の違いを思い知らされるようになるからだ。予めそういう事態になると、よくよくわかっていれば、そんな人生に足を突っ込むこともなかったのに、と思うのだろうが、人間は愚かで悟りがないので、気づいた時には、どうして、ということになることが多いのだ。

そのような意味では、後の祭りにならないように、いつでも自分の信仰が無為にならない生き方を考えて歩みたいものである。5節からエズラの祈りが記録される。過去の罪の告白、神のあわれみと神の命令の確認がなされている。信仰の純潔さを求める祈りである。信仰の純潔さを保つことに、もっと意を注がなくてはならない。神の愛と恵みの中に生きること、そして信仰の歩みを成熟させることに、私たちは信仰的な伴侶と友を必要とする。救いの完成を互いに進め合う交わりをこそ求めたいものである。

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