エレミヤ書30章

エレミヤ書30章 運命を転換する

おはようございます。私が聖書を読むことが毎日楽しみなのは、神の言葉の一つ一つに、神のお人柄を感じるものがあるからです。それは西南戦争の際に、豊後の中津隊の隊長増田栄太郎が西郷隆盛と接しながら「三日の愛生ず」と語った心境に近いのかもしれません。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.さばきと回復

エレミヤは、捕囚の苦難について預言すると同時に、その苦難からの解放を告げています。3節「ユダを回復させる」は、関根訳では「運命を転換する」バルバロ訳では「行く末を変える」となっています。ディアスポラ(離散)の民となり、散らされたユダヤ人は、再び元の地に戻されて平穏に安らかに生きるようになる、と(10節)。おそらくエルサレム陥落の危機の中で語られたものなのでしょう。

エルサレムの滅亡とバビロン捕囚は神の裁きでした。神に背を向けたイスラエルの懲らしめのためであったのです(14節)。そしてイスラエルは、そのまま神に見捨てられても仕方のない者でした。しかし神は、あわれみ深く、「捨てられた女」「尋ねる者のないシオン」(17節)と呼ばれるような身になり果てたイスラエルを顧みてくださる、と言うのです。それはちょうどイエスが、失われたザアカイを見出すようなものでした(ルカ19:10)。ザアカイは、不正によって金儲けをし、満ち足りていましたが、人に見捨てられた者です。自分の頑迷さと愚かさによって、友を失い、孤独になり、誰も見向きもしなくなった者を、神は回復させるために訪ね求められたのです。

2.尊く扱う

注目すべきは、神の回復のさせ方です。「わたしが尊く扱うので、彼らは小さな者ではなくなる」私たちは自分たちが悪い者でありながら、自分の身から出た錆であることを理解しながらも、神の裁きとして現れた存在の不当な仕打ちを決して忘れないものでしょう。いくら神の裁きとは言え、「あなたが私にしたことはやりすぎ」「図に乗るな」と思うようなことがあるものです。そしていつまでも、痛みを加えた人物の顔を思い浮かべては、立ち直れない思いでいたりするのです。しかし神は、そのようないじいじした人の思いや性癖をよく理解しておられます。神は、「あなたの咎が大きく、あなたの罪が重いために、わたしはこれらのことを、あなたにしたのだ」(15節)と言いますが、同時に「あなたから略奪した者は略奪され、あなたをかすめ奪った者は、わたしがみな獲物として与える」(16節)と言うのです。慰めでしょう。神は、私たちを尊く扱うのです。あなたの人生に不当な行き過ぎがあるとしたら、神はそれを償ってくださると信ずべきです。そうであればこそ、踏みにじられた過去の記憶がありながらも「感謝と、喜び笑う声」が湧き上がることにもなるのです。

そこで神の招きに答えるべきでしょう。「いのちをかけてわたしに近づく者はいったいだれか」(21節)。ザアカイがそうであったように、それまでの一切を捨てて、神の懐に飛び込んで、新しい神の祝福に満ちた人生を進んでいく者でありたいものです。