41章 主は相変わらず求められない
おはようございます。宗教的に熱心であることと、まことの神を求めて歩むことはやはり異なることでしょう。神不在の宗教的熱心さ、というものがあるものです。主のみことばを注意深く聞き、従う熱心さこそ求められているものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.エレミヤの選択
エリシャマの子ネタヌヤの子イシュマエルによるクーデターが起こりました。彼らは、カルデヤ人の支配をよく思わない者たちでした。総督ゲダルヤの使命は、このようなゲリラ活動を押さえ、荒廃した国土を回復し、経済活動を再開、安定化し、バビロンに貢物を治められるようにすることでした。しかし、彼は不意打ちを食らって歴史の舞台から消えていきます。社会の進むべき方向が見えながら、人間の無知蒙昧な衝突により、社会の混乱が続いていくことがあるものでしょう。
4節以降の、サマリヤ方面からの80人の巡礼者の虐殺事件は、現代の読者にとっては全くもって不可解です。しかし、イシュマエルが、ダビデ王家の血筋を引く者でありながら、総督の地位を退けられたこと、そして、彼がアンモン人の後ろ盾をもって、ダビデ王国の再興を志そうとしていたことを考えると、彼は、エレミヤを通して語られた神のことばに敵する者であったと理解できます。そして80人の巡礼者たちは律法によって禁じられていた(レビ19:28)身に傷をつける行為をしていました。つまり、彼らを虐殺したイシュマエルは律法に極めて忠実であろうとする原理主義者でもあったのです。彼は一見宗教的に熱心ではありましたが、エレミヤを通して語られた神のことばには心を開こうとはしなかった者です。そのような者の最後の悪あがきが描かれたというべきでしょう。
2.
ゲダルヤの暗殺は、後に第七の月の断食を持って覚えられる日とされました(ゼカリヤ7:5、8:19)。その趣旨は、イスラエルが主のみこころに逆らったことを悲しむことにあります。しかし、この時もまた、イスラエルの人々は、断食を守るという宗教性に熱心でありながら、その趣旨を自分の身に起こる不幸を嘆く日と変えてしまった問題がありました。人は宗教的でありながらも、それは形式ばかりで、主のみこころを無視した信仰に陥ってしまうことがあるのです。
イシュマエルの反乱を押さえ、彼を追放させたカレアハのヨハナンは、この事件の責任をカルデヤ人に問われることを恐れて、エジプトへ逃れていきます。彼もまた、エレミヤを通して語られた主を求めない者でした。イスラエルの残された民は、窮状を打開する指導者を必要としていました。しかし、そのような願いはかなわずにいたのです。いいえ、社会に光を投じる神のことばは、エレミヤを通して明確に語られていましたが、誰もその預言者の声に耳を貸そうとする者はいなかったというべきでしょう。今日も同じような状況であるかもしれません。混沌とした社会にあって、単純に宗教的になるのではなく、神のことばに心を開き、よく耳を傾け、聴き従うことが求められているのです。