42章 良くても悪くても、聞き従います。
おはようございます。信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させると言います。しかし実際は、信じたとおりになりうるだろうかと心を揺さぶられる現実があるものでしょう。けれどもその現実の中で神のことばに懸けていくことが信仰に他なりません。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.カレアハの子ヨナタンの問い
イシュマエルのクーデターから逃れたイスラエルの民は、カレアハの子ヨハナンと、彼と共にいた将校たちとエレミヤのもとに集まってきました。今やカルデヤ人の報復を逃れるため、聖地を見捨ててエジプトに下るべきか、それとも、残された民と共にこの地に踏みとどまるか。彼らは迷い、エレミヤに尋ねたのです。彼らの発言に、誰しもが、真剣に神のことばを求めていた、その状況を感じとることができることでしょう(3節)。エレミヤはそれを受けて、主のことばを求めました。
不思議なのは、エレミヤが語ることは決まっていたはずなのに、彼が神のことばを伝えたのは、10日後であったことです。これまで彼は繰り返し、バビロンを恐れずにこの地に留まり、この国を再建するように語ってきたはずで、その発言が簡単に撤回されるはずはありませんでした。実際、バルクがエレミヤに先んじて彼らにこれまで繰り返された神の御旨を示していたであろうことは43:3から理解されます。それでもエレミヤ自身は語ろうとはしなかったのです。彼自身にもクーデターという状況の変化に、一瞬の迷いがあったのか、それとも、人間が口で言うほど神のことばを求めない頑なな者であることを弁えて語るべきタイミングを待ったのか、わかりません。10がユダヤ人の完全数という考え方からすれば、十分語るべき時を待った、ということなのかもしれません。
2.語られた神のことば
エレミヤのことばは、彼らに二者択一の選択肢を与えました。神のみこころは留まることにある、と。そして神は「あわれみを施す」と約束していることを語ります。神はリーズナブルな報いを与えると言っているわけではないのです。あわれみは、与えられるはずのない全く分相応な祝福のことです。心に留めるべきことは、この神の一言、主のあわれみに心を留め、実際にそれを求めることでしょう。
だから、逆に主のことばに逆らうのならば、合理的な結果が生じる、と言います。恐れている剣や心配している飢饉があなたを襲うだろうと。
大方相談事のある人は、悩みながらも、既に自分なりの答えを心に抱いているものです。つまり自分なりの答えを補強してくれる人を探して、相談にやってくるのです。だから意に反すれば、納得せずに、別の相談相手を探し求めるものです。しかし信仰とは、大方自分の思いに反することばを受け入れていくものでしょう。合理的な判断を超えて神の御業に信頼することが信仰に他なりません。「私たちの神、主の御声に聞き従って幸せを得る」ためには、それが良くても悪くても、自らの思いを超えた神の意思と神がなしうるであろうその御業に信頼していくことが大切です。