コリント人への手紙第一10章

パウロは、旧約時代を振り返っている。そこには一つの比喩がある。キリスト者がキリストにつくバプテスマを受けたように、モーセと共に海を通ってエジプトを脱出したイスラエルは、モーセにつくバプテスマを受けたのと同じである。またキリスト者が、常にキリストのいのちで生かされていくように、彼らも天来のマナで養われたのである。「これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。」(6節)と語る。つまり、そのような恵みと特権を受けた彼らが堕落した時にどうなったのか、「歴史的教訓」に学べ、というわけである。

パウロは昔のイスラエルの民が、目に見えぬ神を見える形、つまり金の子牛にして拝んだ問題を取り上げている。そして彼らは姦淫の罪を犯した(8節)、モアブの女たちによってイスラエルが誘惑され偶像崇拝に加担するようになった時、約24000人の者が神に裁かれて疫病で死んだことを思い起こさせている(民数25章)。パウロは、23000人としているが、人数の違いは、パウロの記憶による引用のためなのだろう。そして主を試みた(9節)。これは食べ物や水のことで呟いた民数記21章4-9節を背景としており、それは、神を信頼せず、繰り返し神の心を痛めることを言っている。そして民数記14、16章の事件にあるように、新しいカナンの地を占領せよと、神のチャレンジを受けながら、自分たちにはできないとぶつぶつ不平をならしながら、尻込み、結局神に与えられた機会を、不信仰によって失ったのである。

これらすべては、私たちに対する警告であり、教訓である。私にそんなことはないから大丈夫だ、と思っている人ほど、その慢心に注意しなければならない(12節)。人生何が起こるかわからないものだし、試練は必ず起こりうるものだから。自分に厳しさを失わず、信仰の道をしっかり歩もうとする者は、たとえ試練にさらされようとも、その試練からの脱出の道が必ず備えられると約束される(13節)。

そしてむしろ、パウロはキリスト者が、キリストの血とからだにあずかる民であるという(16節)。キリスト者は、キリストとのいのちある関係の中に生きる者である。実際かつての民が偶像崇拝で犯した罪の本質は、金の子牛を拝んだことよりも、集会の名のもとに偶像の祭壇の交わりにあずかり、乱痴気騒ぎをしたことであった。つまり、パウロが戒めているポイントは、「悪霊と交わる」(20節)ことである。確かにコリントの教会の問題も、8章にあるように、偶像礼拝そのものよりも、偶像に献げた肉を大盤振る舞いし、乱痴気騒ぎを起こす無節操さにあった。それは結局偶像ではなく、悪霊との宴に興じることなのである。そして、偶像は、人間が時間と思いと精力のすべてをささげるものであるとするならば、今日の私たちも、直接神の形に模ったものを拝む偶像礼拝をしていることはないとしても、自分が手をかけているものに全てを注力し、それにうつつを抜かす人生を生きているとしたら同じである。それは、悪霊に献げられた人生なのである(20節)。キリストの血潮に触れたなら、もはや後戻りはできない。キリストの食卓に与りながら、今なお、物欲の食卓に与り続けることはできない。それは主の妬みを引き起こすことである、と(22節)。

パウロは、キリスト者の生き方の本質を述べた後、再び弱い者への配慮ある行動を勧める。23節「すべてのことが許されている」、しかしだからといって、仲間に対する関心や配慮を欠くふるまいは許されない。心得るべき行動原則がある。一つは自由を原則としながらも、弱い良心を持った人に配慮し自制することである(27節)。また、何をするにもただ神の素晴らしさが現されるように行動すること(31節)、また弱い人のつまずきや誤解を避けること(32節)、そして人々の救いにプラスになることを考えて行動することである。キリスト者の成熟は、他者を思いやりながら行動できることにある。物事を深く考え、色々な事柄に細やかに配慮出来る人になることに他ならないのである。

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