テモテへの手紙第一2章

そこで、牧会者として、どのように神に正しく応答するか、「まず初めに」祈ることだ、とパウロは語りかける。「祈り」は四つのことばに言い換えられている。かつて旧約時代、公的な全焼のいけにえは、朝夕と献げられ、その祭壇の火は絶やされることはなかった。その意味は、宥めと、持続的な聖別と献身にあった。今日、教会に必要とされるのも、この絶やされることのないなだめと持続的な聖別と献身である。牧会者として、朝夕と絶やされることなく、願い、祈り、とりなし、感謝をささげていく。すべての人のために、そして特に、指導者たちのために祈るのである。これは、責任ある重い務めである。

この時代、王位にあったのは神を信じない皇帝ネロであった。しかし、彼のために祈るのである。確かに、敵対と迫害に直面していた初代教会にとって、それは懸命な実践であった。というのも、政府が平和と安全との状態を確立しうること、それが、キリスト者の信仰と実践にも資するものとなるからである(2節)。

そしてさらに全世界の人々のために祈ることを勧める(3節)。何よりも救いを願う、神の御心にそって祈ることこそ優先されるべきものである。実に、キリストが来られ、十字架にかかられたのはそのため、パウロ自身が宣教者、教師として立てられたのもそのためである。救いのための社会環境の維持と、実際の救いのために心から祈り、教会に朝な、夕なとその祈りの炎を絶やさない、これがテモテに求められたことであった。

パウロはさらに、教会の男性を祈りに巻き込むことを語る。日本の教会の感覚からすれば、祈りに巻き込むべき対象は、女性だろう。しかし、牧会者の祈りに巻き込むべき人々はまず男性であり、男性が教会の祈りをリードし、祈りの雰囲気を形作るべきなのである。「怒ったりせず言い争ったりせず」は内面の聖さを語っている。「聖い手」は、行動の聖さを語っている。聖い心と生活をもって、教会の祈りを導くのは男性である。

では女性は?パウロは、女性は、「つつましさ」「控えめさ」を大事にするように語る。つまり教会に霊的な尊厳を与えるのは、男性ではなく女性の役割である。エペソは、豊かな商業都市で、女性たちの中にはお互いに魅力や人気を競い合う者たちがいた。当時高価な宝石で飾ったヘアスタイルをしている人は、社会的に優位に立ったという。しかし、女性の外的な装いは、その内面を映す鏡である。キリスト者であるなら、キリスト者だけが持つことのできる、信仰の実による美しい行いで身を飾ることが大切だ。外見を飾り物で飾る魅力は、上辺だけのこと、しかし霊的敬虔さは内側からにじみ出てくるものである。献身的で敬虔な生き方を、身をもって示している女性は、祈りをリードする男性と共に、教会を霊的に整える重要な役割を果たすことになるだろう。だから、女性は目立つことよりも、むしろ、静かにすることを求めるべきである、となる(11節)。12節は、しばしば誤解を与える表現であるが、パウロは、テトスの手紙で、年を取った女性に、若い女性を教えるように語っている(2:3-4)。敬虔な女性が、個別的に男性を教えることも問題にはしなかった(使徒18:24-28)。あくまでもエペソ教会の特殊な事情があったのだろう。15節、「女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。」は色々と議論のあり、解釈も複数あるが、正確な意味を決定するのは困難である。ただ、パウロがここで言いたかったことは、男性に教会の霊的なリーダーシップを取らせるというのであるならば、女性は、それに協力するように、ということではないか。男性の祈りに、敬虔な雰囲気を加えるのは女性である。女性たちがすべきことは教会を支配することではなく、教会に仕えること、そして女性が産む性であるとすれば、子どもを教会の祈りに動員するように協力することは大切な役目となる。それは口で言って可能なものではなく、まさに、母の信仰と、愛と清さによるものだ。大切なのは、教会が、世の光として輝き続けるために、まず牧師が祈り、男性がその祈りに招かれ、さらに女性が、その祈りを深め、教会の隅々にまで広げることなのだろう。朝な夕な祈りの炎が燃やし続けられる、そのような教会であろう。

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