テモテへの手紙第一5章

本章からは、牧会方法、いわゆる一人一人への関わり方について語る。第一に高齢者に対して。彼らには、自分の母か父のように、また若い女性には、純粋に姉妹のように関わるように、と語る。教会は神の家族であると考えるのがよい。第三にやもめに対して(3-10節)教会はその働きの初めから、信仰を持った未亡人のために配慮を示してきた(使徒6:1、9:39)。しかしながら、教会は、本当に必要のある人に配慮し、自分たちの資源を浪費しないように注意すべきである。つまり、もし未亡人が教会の支援を受けるなら、それにふさわしい資格がある。つまり子どもも孫も身寄りがない、ということ。当時の社会は、社会福祉が発達しておらず家族の責任は大きかった。しかし今日ですら、家族の負担は軽減されても、責任が放棄されてよいわけではない(8節)。

そこでパウロは、教会の世話を受ける人の条件として、第一に忠実な信仰者(5b-7)である。第二に、60歳未満ではない(9a節)。再婚する可能性がない、つまり身寄りを持つ可能性がない、ということだろう。第三によい結婚の証しを持つ(9b)。自ら離婚した女性ではない。第四に、よい奉仕者としての評判を持つ(10節)。「子どもを育て」とあるが、もし自分の子どもであれば、死別したことを意味する。子どもが生きていれば教会は彼女を支えなくてよいだろう。だから、これは、遺棄された身寄りのない子どもたちを助け神様を知るように育てたことを言っている。そういう意味で、彼女たちは教会のために奉仕した人々である。

次に若い未亡人に対する勧め(11-16節)。60歳以下、いやそれ以上に若い女性たちであっただろう。旅行中の事故、病気や戦禍、その他の理由によって女性は若くして未亡人になることがあった。パウロは、そうした女性は対象としないようにと命じる。一つは、再婚するチャンスがあるからだ。さらに時間をもてあまし、罪を犯しかねない(13節)。むしろ、若いやもめに期待されるのは、結婚をして家庭を持つことである。「家庭を治め」(14節)は、文字通りには「家庭を支配する」である。妻は家事全般をやりくりし、夫は妻がそうすることを信頼して委ねなくてはならない(箴言31:10-31)。ただ単純に贅沢を求めて働くだけの社会進出であってはならないのだろう。

最後に長老への関わり。長老は今日の牧師と同じに考えてよい。複数の牧師がいてテモテはその関係に苦労していたようである。パウロがワインを勧めたのも、こうした背景の中で、テモテが胃の調子を崩していたためなのかもしれない(23節)。飲酒よりも医薬的な目的である。

ともあれパウロは、三つの助言を与えている。第一に敬意を払うこと。パウロは旧約律法(申命25:4)を引用しながら、長老たちが、その働きに基づいて適切に扱われるべきであるとした。「二重の尊敬」(17節)は、「惜しみない報酬」と訳すことができる。先のやもめの問題に関連して考えれば、まず、教会のために骨折っている人々のために、教会の資源の適正配分を優先する、ということになる。第二に、長老の懲戒は慎重に行うことである(19節)。うわさや憶測で罰してはならず、事実関係を明確にすることである。だから、すべてのことをオープンに(20節)、偏見なくありのままに取り扱うようにという(21節)。大切なのは、神は正しいことをなさる、ということだ。善い行いも、悪い行いも、神は正しく取り扱われるのである。疑わしきは罰せず、神の裁きに委ねることも大切だ(24,25節)。敬虔なリーダーシップは、神の祝福を導き出すものである。私たちが必要とし求めるものは、そういうものである。

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