ホセア書5章

5章 イスラエルに対する裁き

おはようございます。イスラエルはエフライムと言い換えられています。その生き方の本質が、問われているのでしょう。神との関係を正すよき安息日でありますように。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.エフライムへの裁き

神に反逆する祭司、王、民、つまりイスラエルのすべての人々に対して、神は裁きを宣告しています。たとえアッシリヤの大王(13節)に助けを求めても、その裁きから逃れることはできない、と。

ホセアの時代イスラエルは、北にアッシリヤ、南にエジプトという二大大国に挟まれ、イスラエルでは、国家安全保障のため、アッシリヤと同盟を結ぼうとする親アッシリヤ派とエジプトに頼ろうとする親エジプト派に国論が二分していたのです。それは却って、外国の侵略を容易にする極めて危険が状態でした。ホセアは、その危機的状況の根本的問題が、出エジプト以来、イスラエルを守り支えてきたまことの天地創造の神、主を認めず、立ち帰らないことにあると語っているのです。

3節「わたしはエフライムをよく知っている」ここでイスラエルは、エフライムと言い換えられています。エフライムは、ヨセフが息子につけた名で(創世記41:52)、「実る」というヘブル語パーラーに、地方を表すアイムという語をつけた造語です。「実り豊かな地」を意味します。実際エフライムと呼ばれた地域は、北はミクメタテ、南はベテ・ホロン、ゲゼルにおよぶ中央パレスチナの丘陵地帯で(ヨシュア16:3、6)果樹が栽培され、ぶどう、オリーブ、ざくろ等がとれたパレスチナ中最も豊かな地域でした。しかし、その物質的豊かさを象徴するエフライムということばは、その地の出身者で、北王国最初の王ヤロブアム1世(1列王11:26)の神に対する反逆的な在り方をも象徴するものでした。エフライムが、BC745年頃から、イスラエルの同義語として用いられるようになったのは、そのような経緯によるものでしょう(イザヤ7: 2、5、8-9、エレミヤ31:18)。

2.悔い改めを待ち望む神

ともあれ、神はこのようなイスラエルがひたむきに神を求める時まで、イスラエルを捨て置くと言います。神の裁きは、神がご自身の身を引き(6節)、自ら蒔いたものを刈り取るようになされる、と。「エフライムにはしみのように、ユダの家には腐れのようになる」(12節)は、その神の裁きが徐々に進行し、気づいた時にはとりかえしのつかない事態になることを意味します。大切なのは、しみや腐れとなる前に、気づきを得て、主の顔を慕い求めることでしょう。というのも、実際には、主はいつも側におられてご自分の民を見守って、悔い改めて立ち返るのを待っておられるからです(15節)。私たちがいざ求めた時に、もう神は「絶対赦さない」と吐き捨てるようなお方ではありません。あるいは、「お前の悔い改めは本当なのか」といぶかる方でもありません。神は人とは違うのです。神の愛のことばは、ホセアの家庭の物語を背景に語られていることに注意すべきでしょう。神の愛の深さに頼る以外にない現実を素直に認めて、神の下へと急ぎましょう。