ホセア書4章

4章 イスラエルの偶像礼拝

おはようございます。昔は、時計が狂いやすく、朝毎に時刻を合わせることがありました。時計の進歩に比べ、人は相変わらずで、朝毎に心の調整が必要な者でしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.イスラエルの民と祭司の罪

ホセアの家族の例えは、3章までです。ここからは、ホセアの家族を通して象徴的に語られたイスラエル北王国の宗教的な姦淫の問題が、直接的な言い方で指摘されていきます。「この地には真実もなく、誠実さもなく、神を知ることもない」(1節)「呪いと、欺きと、人殺しと、盗みと、姦通がはびこり、流血に流血が続いている。」(2節)。「呪い」は神の名によって隣人を呪う第3戒への違反を、「欺き」「人殺し」「盗み」「姦通」は第9、6、8、7戒への違反です。そして人間によって、十戒が破られている罪の現実が、地とその生き物にも影響を与えていると言います。環境問題は、まさに人間の罪の現実を抜きに、本当は語れないものでしょう。

そこで、この律法を教える祭司が、まずその職務に忠実であったかどうかが問われることにもなります(4節)。「わたしの民は知識がない」(6節)。祭司が神の教えを軽んじているので、民も同じである、と。一見、旧約聖書時代における、祭司の任務は生け贄を献げること、とりなすことのように思われるかもしれませんが、神の律法を教えることもまたその重要な職務でした(レビ記10:11)。実際神の戒めがあればこそ違反に気づき、生け贄を献げる意義や神の恵みの深さも理解できるからです。しかし、当時の祭司は、その職務に不忠実であったばかりか、自ら神の教えを否定する行いをしていました(9節)、結果彼もまた偶像に仕える祭司と同じだったのです。そこに神の否がありました。

現代の牧者も同じ責任を問われているのでしょう。教会が大きかろうが、小さかろうが、牧師は、自らみことばに生きるとともに、信徒一人一人をみことばにつなぎ、主に従う心を深めさせていく務めを怠ってはならないのです。

2.先例による教訓

11節以降、まことの神を捨てるその結果が挙げられます。霊的な判断力が失われ、正しい思考が停止することです(11節)。彼らは自分の問題を理解することができません。また、偶像崇拝です(12節)。まことの神を認めないなら、木や石で出来た偶像を重宝にするほかはないのです(13節)。神はこのような愚かさを裁かないではおられません(14節)。

そこでホセアは警告します。イスラエル北王国のように、ユダも滅んではならない、と(15節)。「人の振り見て我が振り直せ」ではありませんが、やはり先例とその現実によく目を開かなくてはなりません。イスラエル北王国が、どんな末路を辿ったのか、私たちも悟る必要があります。ヘブルの著者も言っています。「神のことばをあなた方に話した指導者たちのことを、覚えていなさい。彼らの生き方から生まれたものをよく見て、その信仰にならいなさい」(13:7)。人間は昔のゼンマイ仕掛けの時計と同じです。正確ではないので、朝毎に調整が必要なのです。みことばに心を合わせて、今日の一日もスタートすることとしましょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です