マルコの福音書14章

マルコの福音書14章 受難物語
1.イエスの受難前夜の出来事(14:1-9)
14章は、十字架前夜、最後の晩餐とゲッセマネの園での出来事、そして逮捕と裁判、いわゆるイエスの受難物語と呼ばれる部分です。ちょうど、教会暦でも、今年は17日からレントが始まったばかりですね。ちょうどこのレントに当たる時期、フィリピンを旅したことがあります。カトリック教会を訪れたら聖像という聖像すべてに白いシーツがかけてあったのが印象的でした。イエスが復活されたイースターの日になると取り除くのだそうです。イエス受難の時を、痛み悲しみ、悔い改めをもって、厳粛に過ごし、キリストの復活を待ち望む生活リズムがあるのですね。
さて、聖書を見てまいりましょう。イエスが十字架にかかられる前の日の夜のこと、石膏のつぼを抱えた一人の女性がイエスに近づいてきました。そのつぼには、ナルド、つまりインド、ヒマラヤ産の植物の根茎から採れた高価な香油が入っていました。それは当時、家庭の芳香剤、女性が使う香水、さらには、宗教的な礼拝儀式や死体を葬る時の芳香剤として、様々な用途で使われていたものです。また客人が家に到着して、食事の席に着いた際に、この香油を数滴振りかける習慣もありました。ところが、この女性は、イエスに近づくや否や、数滴どころか、壺を割って、その中身を全部イエスに注いでしまったのです。その値打ちは300デナリ、つまり当時の日当は1デナリでしたから、約一年分の収入に相当するもの。集まった人々は、なんてことをする、もったいないと考えましたが、イエスはそうではありませんでした。そこには、この女性のイエスに対する真実な愛と献身があったからです。確かに愛は偉大な浪費的行為です。
2.弟子の裏切り(14:10-31)
次にユダを始めとする弟子の裏切りのエピソードが続きます。それらは、この女性の愛とは対照的で、自己愛に満ちた物語です。同じ人物、イエスを前に、今この時を別々の意味で捉えた二人の姿が対照的ですね。今が愛と献身を示す時と考えた女性と、今こそ裏切りのチャンスであると考えたユダ。自分はどちらか、まあ、間違ってもユダではないだろうけど、この女性でもない、29節、口先だけのペテロかな、と思うところではないでしょうか。よくわかっていると思うことがわかっていなかったり、深いと思ったはずの関係が、意外と表面的であったり、びっくりさせられるようなことが人生にはあるものです。
3.イエスの逮捕(14:32-72)
最後にゲッセマネの園での苦しみと、イエスの逮捕。彼らはイエスに祈るように求められながらも、心を一つにして祈ることができませんでした。残念なことに、イエスと生死を共にする覚悟を示したペテロも、同じでした。そして時はやって来ました。逮捕されるイエスを守ろうとしてペテロは、「剣」を取り上げました。他方、イエス自身は、大祭司の前に引きずり出されても、全く動じず、神の子か悪魔か、狂人かという問いについて、ご自分が神の子であると認めるのです。ここにも対照的な姿がありますね。イエスに予告されたとおりに、イエスの弟子であることを否定し、こそこそ隠れるペテロ、堂々と、自分自身に対する訴えを受け入れ、語るべきことを語るイエス。信仰を持つなら、見せかけではないまことの信仰を持ちたいものです。では今日もよい一日であるように祈ります。

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