ヨハネの黙示録7章

聖書では、しばしば数字の4は、全体を指す。御使いは霊的で、目に見えない形を持たない存在である。そのみ使いが、四方の風を押さえている。何かを抑止している。また、2節、さらにもう一人の御使いが登場する。わざわざここで生ける神の印と断っているのは、命のない、造り物の偶像に対比してである。その生ける神の印が額に押される(3節)。額は一番目立つところで、文字通り額に印を押された者の数を言っているのではなく、神の民とされたことがはっきりわかる者の数が、という意味だろう。その数144,000人、これも実際の統計的な数ではなくて象徴的な数として理解すべきものである。たとえば12部族をあらわす12の二乗、それにさらに完全数10の3乗をかけると144,000人となる。全てを包括する完全数であって、限られた数の人々、一定数の人々という程度の意味で受け止めておいた方がよい。
「イスラエル」これは民族的な意味ではなく、霊的な意味で使われている。というのも、この時代にはすでに文字通りの12部族は、明確に区別される形では存在しなかった。イスラエルの子孫という表現そのものが民族的な意味よりも、霊的な意味を持っていると取る方がよい。だからリストの最初にユダ族が出てくる。ヤコブの長男はルベンであるから本来はルベンから始まるべきものだ。それがルベンを差し置いてユダから始まるのは、この部族からメシヤが出たものだからである。そしてどの部族からも、12,000人。実際の部族構成数には差があるからどの部族からも12,000人というのは不公平でもある。だからこれも、歴史的なイスラエルと取るよりも霊のイスラエルのことを言っていると理解すべきなのだろう。もちろん、霊のイスラエルイコール教会と単純に理解するのではなく、歴史的に、神の民とされたすべての者と理解すべきであり、そのように集められた者の数は非常に多い(9節)というわけだ。
その救われた者たちが御座の前に立って、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神と、子羊にある。」面白いことに声は単数である。大勢が叫んだのに、声が単数というのは、声を合わせて一つにして叫んだということ。彼らは、まさに子羊であるキリストの権威を認めた者たちなのである。
14節の主は、13節の長老の一人を指している。つまり主と言えば必ず、神を指すのではなくて、一般的敬称として用いられる例である。「長老様、あなたこそご存じです」ということだ。そこで、その長老の質問は、修辞的な疑問文になっている。答えはわかっていて、あえて疑問文の形にして、より印象を強める手法である。集められた者は、キリストの権威を認めたのみならず、キリストの血で聖められた者たちである。だから彼らは聖所に仕えているとされる(15節)。「聖所」はギリシア語でナオス、外庭を含めた神殿全体ではなくて「至聖所」である。聖所で昼も夜も神に仕える。そして御座についておられる方も、彼らの上に幕屋を張られる。ヨハネは、この幕屋を張られる(スケーネー)ということばを用いてイエスの降誕を言い表した(ヨハネ1:14)。御子イエスは、おのれを空しくして、私たちの間に住まわれた、という。また黙示録21:3「見よ。神の幕屋が人とともにある」同じ幕屋だが、ここでは一時的な意味というよりも、神の永遠の臨在が強調されている。つまり、ここは、新天新地、天の御国のことが描かれている。21章でさらに詳しく描かれる終わりの祝福を先取りして教えているのだ。6章と8章の裁きと患難の叙述の間に、クリスチャンたちを励ますビジョンとして語られている。世の戦いを終えて天に召された勇敢な信仰の戦士たちが整列しながら凱旋してくる様(4-8節)と、彼らの戦勝パーティが繰り広げられようとしている様(9-17節)が描かれているというわけだ。クリスチャンにとって、やがて神の前に立つことは、恐怖の裁きの座に引き立てられることではない。それは勝利の凱旋、戦勝の祝宴に参列することである。いつも、その日を覚えて気持ちを引き締めて歩みたいものである。

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