レビ記26章

<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。
いよいよ、最後の締めくくりとなる26,27章に入ります。古代近東の契約の形式に沿って、契約を守る時の祝福と破る時の罰が語られます。しかし、古代近東のそれとの根本的な違いは、神の深い愛が語られているところでしょう。たとえ、私たちが契約を破り罰を受ける事態になっても、見捨てられることはありません。神は私たちを回復されるのです。今日も皆さんの上に主の平安があるように。

1.カナン占領に関する定め(27,28章)
レビ記も残すところ後2章である。この26、27章は、カナンの土地に関する定めとなっている。これから定住するカナンの土地は、主のものであったが、その所有権は、契約に基づいてイスラエルに属するものであった。だから主の御心に沿ってその地を管理し耕さなくてはならなかった。26章は、そういう意味で、神に従順であることがイスラエルの祝福と繁栄の基本であることが語られる。また、27章は、その祝福に与った神の民がささげ物をもって、応答すべきことが語られている。
1) 神に従わない罰(26章)
(1)祝福(26:1-13)
 シナイ契約は、古代ヒッタイトの宗主・隷属者契約とその構造が良く似ている。つまり、規定を遵守する者に対する祝福とそうでないものに対するのろいで締めくくられる構造がある。古代ヒッタイトのそれは、神々の名で述べられた脅しのことばなのだが、この26章は脅しというよりは、神のお墨付きを与えるようなものである。
 神は、ご自身を恐れ、従う者を祝福される(1,2節)。偶像礼拝を避けよ、安息日を守れ、主を恐れよ、そうすれば、地は産物を出し(4節)、満ち足りるほどにパンが与えられ(5節)、安らかに住み、平和が与えられ(6節)、悩まされずに、悪い獣や剣からも守られ、敵は追い散らされる(7節)、という。イスラエルをエジプトから解放すると約束された主は、確かにその言葉を守られた。同じように、今の私たちに対しても神は、契約を結び(9節)、その契約を確実に守られる。永久に変わることのない主の契約は、私たちにも有効なのであり、主はいつもともにいてくださる(12節)。
2)罰(26:14-39)
 一方で、もし聞き従わず、契約を破るのならば(14,15節)、神は、恐怖を臨ませ(16節)、私たちは敵に打ち負かされ、踏みつけられ(17節)、地は産物を生み出すことがなく(19節)、私たちの努力も実を結ばない(20節)。野の獣に荒らされ(27節)、疫病がくだされ(25節)、神が敵対し(24,27節)、祈りが聞かれることもない(31節)。「追いかける者もいないのに倒れる」とは、自滅の道を辿るということだろう。
 神の契約は、祝福と懲らしめの双方を含む。神がご自身に逆らう者、神の戒めを破る者と祝福を分かち合うことはない。神を侮辱しつつ、神の祝福を得られ続けることはない。私たちは神に従うべきであり、神に懲らしめられる者であってはならないのだろう。
(3)悔い改めの報い(26:40-46)
ただ大切なのは、神はいつまでも懲らしめられ続けるお方ではないことだ。神は懲らしめを与えられるが、いつでも悔い改めによる回復を望んでおられる。人が苦しみを通して心がへりくだるならば(41節)、神は再び契約を思い起こすとされる(42節)。神は敵対されるが、見捨てられることはしない(44節)。神は罪人が死に滅ぶことを望まれるのではなく、悔い改めて生きることを願われる(ルカ15:7)。ご自分がエジプトから連れ出した民を、永遠に葬りされることはない(45節)。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」(ヘブル12:5,6節)とあるように、神は、祝福に導こうとして、私たちを懲らしめる。
しかし私たちの罪の心は、神に逆らい、神の懲らしめを敵意と感じてしまう。神がどこまでも善であることを信じることができずにいる。私たちは、ひどく失われた心を持っている。そこでまず、神に偽りはないことを覚えるべきなのだろう。神が私たちを見捨てることは決してない。私たちは人が自分に敵対する時に、その人が去っていくことを予測する。敵対する者がいつまでも側にいることはない。それが人間の常識である。しかし、神はそうではない。神は敵対されるが、決して立ち去られることはない。イエス・キリストの十字架が象徴するのも、そういうことだろう。神はただ単にパフォーマンスで私たちに十字架の愛を示されたわけではない。神は、私たちに、ご自身の血を流し、肉を裂き、回復を約束し、これを永遠の契約とされた。いつでも私たちは十字架に立ち戻らねばならない。十字架に私たちのすべての罪の赦しがあり、十字架に、私たちの回復の出発点があるからだ。
 もし、神にのろわれていると思うことがあるならば、十字架に立ち戻らねばならない。十字架を神に差し出し、私たちは、神に逆らう者、罪人であることを認めながら、悔い改める者に契約が有効となることを訴えなくてはならない。主よ、あなたはへりくだる者に哀れみ深い方である、とキリストとともに訴え、完全なる罪からの回復と人生の回復を要求しなくてはならない。
 神は祝福の神である。従う者の神である。神は回復の神である。悔い改める者の神である。弱き者ではあっても、神の契約にしっかりと立って、神の恵みとあわれみの中に、祝福の歩みを歩ませていただこう。

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