創世記25章

 アブラハムは晩年に、もうひとりの妻ケトラをめとった(1節)。一見サラ亡き後に再婚したかのような書き方であるが、そうではない。アブラハムの年齢からすればケトラによってさらに6人の子どもを産んだというよりは、ケトラがサラ存命中に「そばめ」とされたと考えられている。つまりこの記録も、「あなたは多くの国民の父となる」(17:4)という起源を説明するものとして加えられているのであろう。ミデヤンは、北アラビヤの民族であり、後にモーセがこの地に逃れることになる。聖書は、常に選びの神の民をテーマに、伏線を引きながら先へと話を進めている。
 さてアブラハムは、やがて迎える死の備えを忘れない(5,6節)。アブラハムはイサクに全財産を与えた。それは主の契約を継承する信仰の行為であった。また死後、不要な相続問題が起こらないようにする配慮もあったのだろう。ケトラの子どもたちには贈り物を与え、存命中にイサクから遠ざけていく。イサクはアブラハムの相続を受け継ぐ約束の子であった。イシュマエルはアブラハムの子として同じ祝福を受け継ぐ子ではあったが、相続を受け継ぐ子ではなかったのである。それはちょうど神がすべての者に恵みの雨を降らせ、よい人も悪い人も同様に取り扱ってくださるもの、イエスにあって、神を信じる神の子は、約束の子、相続を受け継ぐ子として特別に扱われるのと同じである。 
アブラハムの一生は175年。主の約束の成就としてアブラハムは「平安な老年を迎えた」。また「長寿を全うして息絶えて死」んだ。長寿を全うするというのは、「満ち足りて、人生を堪能して死ぬ」という意味である。アブラハムは、信仰によって生き抜き、信仰の勇士たちに加えられた(ヘブル11:8)。人間にとってどのように生きるかと同時に、どのように地上の生涯を締めくくるかも重要である。最終的に人は業績や働きによって評価されるのか、それとも、その人の存在そのもの、つまり持てる品性と信仰によって評価されるのか、神を知る者にとって、大切なのは、後者の方である。12節「息絶えて死に、その民に加えられた」とまとめられるイシュマエルの人生は、特段の業績も品性も評価されえず生涯を締めくくる多くの人の生き方を象徴しているようである。
 19節よりイサクが、中心人物となって語られる。イサクがリベカと結婚したのは、40歳の時であった。イサクはあらゆることにおいて祝福されていたが、世継ぎの子はなかなか与えられなかった。イサクは子が授かることを期待した。そして20年の時を待たされていく。イサクは妻のために祈願した、という。不思議なことである。神は約束されるが、約束が成就するために祈願の時を設けられる。それは、人がこのようにして、全能の神を覚え、神を生活の中心としていくことを学ばせるためなのだろう。
 神は祈りに答え、イサクには双子が与えられた。そしてリベカの祈りに答えて兄が弟に仕えると予告される。生まれた子は、エサウとヤコブと名付けられ、その性格も対照的であった。イサクは二人のうち、エサウを愛するようになった(27節)。一方リベカはヤコブを愛するようになった。それは、多分に感覚的なものであったのだろうが、リベカには、神の約束を思う思いもあったのではないか。
そんなエサウがある日、いつものように腹をすかして狩猟から帰った。「食べさせてくれ」は、「飲み込ませて」の意味で、荒々しい言い方であるとされる。後にヘブル書では、エサウは俗人として評価されているが(ヘブル12:16)、それは、一杯の食物と引き換えに、長子の権利を売ってしまったばかりか、そこに隠された霊的な意味を軽んじたためである。長子の権利は、二倍の財産の分け前を受けることができた(申命21:17)。そしてこの権利を売ることは、当時としては珍しいことではなかったようであるが、アブラハムの家系においてそれは、霊的な相続を意図する特別なものであった。創世記の著者がアブラハムの物語を書き連ねるにあたり、私たちがそこに学ぶのは、アブラハムの神観の拡大である。アブラハムがいかに神と深い交わりと関係を持つに至っていくかを教えられる。同じように、ヤコブもまた、アブラハム、そしてイサクの正統な霊的遺産の継承者として、神との交わりの深まりを聖書から教えられるのである。具体的にそれは、ヤコブが、兄のかかとを掴むところから始まり、逃れ、仕え、羊を飼い、主と戦い、主に勝つ者となった、という霊的な変遷に見ることができる。それは、ヘブル12章にある霊的遺産の継承者にも見られる私たちの模範でもあるのだ。エサウは、軽率であったし、霊的なものを大事にしなかった。神の定められたことは、時が至れば実現する。しかし、神の定められた祝福を手にするか否かは、私たちの神に対する積極的な応答による。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です