創世記48章

 ヤコブは、年老いていよいよ最期を迎えた。彼は力を振り絞ってとこの上に座った。そして語った。「全能の神はカナンの地ルズで私に現れ、私を祝福して仰せられた」(4節)と。ヤコブは「全能の神」との出会いを思い起こす。すべてはそこから始まった。そしてその神は「きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神」(15節)である。しばしばヤコブは難しい人生を通らされてきた。しかしその過程で、彼は、神の助けと守りを受けてきた。彼は羊飼いであられた神であると同時に、全能の神の御力と助けを経験してきたのである。そして、確かに神が約束してくださったように、ヤコブを祝福し、増やし、所有を与えてくださった、と認めている(4節)。
5節ヤコブはヨセフの子マナセとエフライムを自分の子としようとする。その心は複雑であり、痛ましい。最愛の妻ラケルの子を最も授かりたかった、というヤコブの本音が現れているのかもしれない。ヤコブにとっては目にみえる現実の家族の中で、心の家族と言うべきものがあったのではあるまいか
 人間にとって神に従う人生は決して単純ではない。神は確かにこの私を祝福してくださった、私に最善をなしてくださった、と思うと同時に、その途上には、思い出せば悲しくもあり、自分の思う通りにはならなかったと思うこともある。だがそうであっても、神は私に真実であったことに変わりはなく、自分の偏狭な人生もそうであればこそ豊かにさせられたのだ、と思わされることも確かなのである。
ヤコブは、自分の頭がしっかりしている内に、信仰によって子どもたちを祝福しようとした。長子の権利は、長子のルベンが父の寝床を汚したことで(創世記35:22)ヨセフへと与えられたと聖書は言う(1歴代5:2)。確かにヤコブは、ここでヨセフに、自らに祝福として与えられた長子の権利を継がせようとしたのであろう。しかし、ヤコブが考えている長子の権利と、神が考えておられた祝福の継承は、必ずしも同じではない。というのもイエス・キリストの系図を継承する祝福は、ルベンでもヨセフでもなく、ユダに与えられたからである。
またヤコブは、自らの経験を思うところがあったのか、ヨセフの子どもの祝福の順序を違えている。ヨセフの長子を祝福するのではなく、弟を祝福する。そしてヨセフにシェケムを与える約束をした。しかしながらシェケムの町は、実際には、イスラエル人がエジプトから脱出し帰国した際に、エフライムとマナセの境界となり(ヨシュア17:7)、逃れの町(ヨシュア20:7,21:21)、また、レビ人の町としてケハテの子たちのものとされている(1歴代6:67)。
 つまり、すべてはヤコブが思い描いたようには運ぶことはなかった。ヤコブは勝手に神のみこころを考え、神のみこころに生きているように思い込んでいたが、神のみこころはヤコブの思いを超えたものとして進められていた。それは、私たちとて同じことである。人間に神の御心を知り尽くすことはできない。いかに謙虚に、神のみこころを考え抜かねばならぬかを教えられるところだろう。そして同時に、信仰をもって子を祝福することも教えられるところである。子どもを見れば色々と、不完全であり、気を揉むことも多々ある。しかし親が子にしてあげられることは、愛情を注ぐことであり、祝福すること以外にない。いつも、現実ばかり見るのではなく、その子の将来に主の確かな祝福を覚えて祈り続ける、その子の祝福を描いて、励ましと支えとなるまなざしを注いでいく。自分もまた神にそのように祝福され導かれたことを思えばこそである。今日も、信仰によって家族を祝福する者でありたい。

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