詩篇95篇

95篇 神にひれ伏す

おはようございます。本日の詩篇は、礼拝賛美への呼びかけ、その根拠として、天地万物の創造主であること、私たちの造り主であることが告白されます。日々主を、創造主として仰ぎ、従順となるところに、教会の賛美が豊かにされるのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.文脈と背景

この詩篇は、カトリック、聖公会さらにプロテスタントの諸派にて礼拝招詞の詩篇として用いられてきた。ギリシャ語の七十人訳聖書は、表題に「ダビデの讃美歌」と付し、ヘブル人への手紙の著者も、その解釈を支持しているが(4:7)、他の礼拝用の詩篇(96-100篇)と同様に、捕囚帰還後に作られた、とするのが定説である。つまり、BC516年、エルサレムの神殿が再建された喜びの中で歌われた、と考えられている。伝統的にイスラエルでは、この詩篇は、新年祭に朗唱したようであるが、7節の「今日」が、その特定の日を指すものなのかどうかは、わかっていない。この詩篇は、喜びに満ちた主への呼びかけで始まり(1-2節)、その理由付け(3-5節)、呼びかけ(6節)、理由付け(7-8節)と繰り返され、最後に神の警告のことば(9-11節)をもって終了する構造になっている。

2.礼拝をしよう(招き)

まず、第一段階で、詩人は主に対する賛美を呼びかけ、その理由として、主が「宇宙」の創造者、「全世界」の統治者であることを告白している(3-5節)。偉大な、万物の主である神を認めるところに、私たちの賛美がある。そのような意味で、礼拝の流れとして、感謝よりも賛美から始まることは理に適うものだろう。礼拝に集って、いきなり感謝します、という気持ちに自分を持っていくことは難しいものだ。そして賛美できそうもないと思うような時があっても、まず、招詞によって、すべての神々に勝る大いなる神を仰ぐ心を持ち、神を認め、神の何であるかを思いめぐらすところに賛美が起こってくる(4、5節)。それが礼拝の本質的な行為となる。

そして第二段階において詩人は、主が「私たち」の統治者であることを告白し、神を仰いでいる(7節)。天地万物の創造主である偉大な神が私たちに個人的に関わり、個人的な導きと恵みを与えてくださるからこそ、さらに私たちは主を仰ぎ伏し拝まざるを得ない。

3.主に従え(警告)

最後に、それまでの招きの調子と打って変わり、警告が語られる。このため、二つの詩が組み合わされたものであると考えられた時期もあるが、むしろ招きと警告をセットに、礼拝の精神を伝える内容となっている。つまり、主を認め、主に礼拝する心を持つならば、同時に、今日この日、主のことばに聴き従う心構えを持つことがまた礼拝である、というわけだ。しかしながら、人の心は実に勝手で気ままで、神に対して心頑なである。「メリバ」は「論争」を、「マサ」は「試みる」を意味する。その言葉の由来は、出エジプト17:7に詳しいが、私たちの神に対する心のありようへの警告である。ヘブルの著者も警告するように、人には打ち砕かれない心がある。神を認めず、背を向けがちな心が問われる場、それが礼拝である。

そこでこの招詞は、詩文としての文学的な美しさを犠牲にして、実際的な信仰上の緊急性に喚起を促すことばをもって締めくくられている。結局、信仰は、彼岸のことを最終目標にしながらも、日々の今をどう生きるかが勝負なのだ。詩人が「賛美をもって、主に喜び叫ぼう」と呼びかけるのは、ただ毎週、教会で声高らかに音楽に合わせて神を賛美しよう、というのではない。それは、創造主である神を認めるところから、賛美に溢れた日々を生きることが基礎となっている。口で声高らかに賛美しながら、日々の生活は全く別物であるなら、それは口先だけの賛美である。日々創造主を仰ぎ、従順であることが、教会の礼拝において真の賛美を溢れさせるものとなる。

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