23章 礼拝の再興
<要約>
おはようございます。礼拝の再興、これは、モーセの時代、ダビデの時代、そして捕囚帰還後の時代においても重要なテーマとなりました。おそらく今日の日本においても同じでしょう。礼拝が神に向かい、神の栄光を現す場となるように、そのために一切の奉仕や活動が秩序づけられていくことを願うところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.第二のモーセダビデ
21章からは、ダビデによる神殿建設がテーマとなっていた。21章のダビデの罪と神のあわれみをとおして、神殿がどういう場であるか、を教えられる。それはソロモンの神殿奉献の祈りによって(2歴代誌6章)さらに明快に語られることになる。また、昨日22章で教えられたように神殿は、主の栄光の満ちる場であるが、主が建てあげてくださるものであり、私たちはこの主の誠実さに対して一致と協力によって応えなくてはならない。
続く23章から27章までの5つの章は、どのように応えるか、神殿に仕える者たちと支える者たちを数え上げ、彼らの役割を説明することで例示していくのである。だから捕囚帰還後の民は、これらの箇所を読みながら、互いの役割をよく理解し合って、神殿建築および礼拝の創設に向かって整えられたと言える。
そこで23章は、神殿に仕える者たちとして特にレビ族に注目している。それは、一つにはダビデを第二のモーセと見なしているためである。モーセは、イスラエルの民をエジプトから導き、荒野にて最初の礼拝を組織した。ダビデも、カナンの地を平定した後、そこに恒久的な礼拝を確立しようとした。ある意味で、荒野の時代は、ダビデによって本当の意味で終わりを遂げたのである。実際ダビデは、レビ人に祭司を助け、神殿の活動に関連する任務を与えてこう語っている。「イスラエルの神、主は、御民に安息を与え、とこしえまでもエルサレムに住まわれる。レビ人も、幕屋を運んだり、奉仕に用いるすべての器具を運んだりする必要はない」(26節)と、幕屋時代から脱したレビ人に、ダビデは、これまでの神の宮での奉仕のわざに加えて、賛美の任務、門衛、つかさとさばきつかさ、と新しい役割を与えている。こうして著者はダビデの言葉を引用しながら、捕囚帰還後の民に、新しい神殿建設とそこでの礼拝のビジョンを与えようとしたのだ。
だからこのレビ人のリストも、どうやら複数のリストを再構成した意図的な編集となっている。実際、ここでは詳しくは述べるつもりはないが、出エジプト6:17-25、民数3:17-37、1歴代6:16-30の同じようなリストと比べてみると、レビの三人の息子から始まり、その後に孫の名があげられるが、三代目になると、内容は幾分違っている。またその名前はどうやら、時代が違うものも混じっているのではないか、とも言われている。つまりそれは、必ずしもイスラエルの歴史を正確に記録したものではなく、むしろ、過去のレビ人の在り方を現在の神殿礼拝再生のために取り上げ、神殿礼拝に仕える者の参考とするためであった、というわけである。ダビデは、神殿の働き人を組織し、秩序化しようとしているが、それは、パウロが混乱していたコリントの教会に「すべてのことを適切に、秩序をもって行う」(1コリント14:40)ことを教えたのと同じことなのである。
2.神殿礼拝のリーダーシップ、レビ人
また、著者が、そのような秩序だった礼拝を実現するためにレビ人に注目させるのは、この歴代誌が書かれた時代、レビ人がある意味で軽んじられ、無視される状況にあったからだ。それは、ネヘミヤ記13章に詳しい(10-11節)。神殿を牛耳っていたのは、その土地に古くからいたトビヤという有力者であり、彼は神殿建設を妨害し、リーダーのネヘミヤを悩ませただけではなく、彼と個人的に親しい祭司たちが、彼を優遇することで、本来神殿の主役であるべきレビ人がないがしろにされていたのである。レビ人は、支給を受けられず、その働きに専心することができない状態にあった。
教会にも教会が守るべき秩序がある。新しい組織が再編されても、教会の古くからの秩序がそれを邪魔することがある。しかし教会は誰のものでもない。主のものであり、主が立ててくださった新しい秩序のもと、次のステップに進む、皆の信仰と従順がなければ、教会の発展はない。また組織的な秩序を語ると、しばしば、権威体制を強めるとか、管理的支配的になると敬遠されたり批判されたりすることがある。しかし、私たちの主は、礼拝のために、祭司とレビ人という秩序を定めてくださったのである。それは彼らが崇められるためではなく、彼らを通して神の栄光が一層世に深く、広く証されるためである。礼拝においては、礼拝のために神が定めてくださった秩序があり、その秩序に沿って礼拝がささげられる必要がある。
著者は、こうしたレビ人が見直され、礼拝再建において主要な役割を演じる期待を寄せていた。著者は記録する。その数、レビ族38,000人の内、主の宮の仕事を指揮する者が24,000人、つかさとさばきつかさは6,000、門衛が4,000、賛美する者が4,000と大変な数である。しかし数的なバランスも悪い。指揮者、監督が奉仕者以上に多いことは考えられないことで、この動詞の普通の意味は、監督であっても、「管理」と言う程度の意味にとった方がよいのだろう。つまり、指揮する者の中に、実働する者たちの数も加えられていたということである。
3.レビ人の任務
6節以降のレビ人は、三つの伝統的な氏族、ゲルション(7-11節)、ケハテ(12-20節)、メラリ(21-23節)に分けられている。13節、アロンの子孫については、別枠になっている。それは、祭司とレビ人を区別するモーセの見方に沿ったものなのだろう(民数4:15)。彼らの責任は「聖別する」「香をたく(犠牲をささげる)」「主に仕える」「祝福する」の四つであり、レビ人はその働きを助ける補佐としての責任を持った(28節)。
教会は、現代社会において世の光地の塩としてどのような役割をはたすべきであろうか。今日の教会は、宣教の活路を見出すために、より多くの興行的なアイディアを求めている。しかし、多くの教会が、流れていく方向が正しいとは限らない。礼拝の後に、個人のやりたいことが、無秩序に多々詰め込まれ、奉仕だと称して教会に居残りをさせられる。そして実りは少ない。日本の伝道は難しいのだから、しょうがない、という理屈付けも、どんなものかと思う。
ダビデや捕囚帰還後のイスラエルの民が、目指すように促された礼拝の再建は、どのようなものであったのか、をもう一度考えてみたい。そこは、犠牲がささげられ、罪の赦しが宣言され、主の祝福が祈られる場であった。皆その恵みをもって自分の家に帰り、主の安息を楽しんだ。この基本がまず日曜日に体験されなければならないだろう。もし、主の安息を、真に感じ、人が喜びに満たされるなら、その日は、最高の日であることに間違いはなく、また、帰宅後も主の平安の中に、過ごすことができるだろう。その神殿の機能をより効果的に、合理的に、また妥当的に行うために祭司のみならず、神殿の細かな用と祭司を補佐するレビ人の働きがあったのである。だから教会の奉仕も、この神殿が建て上げられた目的にかなうように進められなくてはならないだろう。それは、ちょうど、使徒たちの時代に、教会が霊的なことを教会において大事にできるように、執事が補助的なリーダーシップとして立てられたのと同じである(使徒6:1-7)。教会が、神の聖別と、神にある罪の赦しと恵みを、教会に来る人々に、提供しうるために、全ての奉仕が秩序づけられていかなくてはならない。そこをしっかり整えることが、礼拝の祝福、教会の祝福につながるのである。私たちの教会の働きがどこに向かっているのか、神に向かっているのか、人に向かっているのか、改めて考えたいところではないだろうか。