1列王記3章

1列王記3章 ソロモンの知恵
<要約>
おはようございます。ソロモンが与えられた知恵のエピソードで有名な箇所ですね。大切なのは、彼が上から知恵を与えられたということ。その知恵によって彼の生涯が飾られたということ。つまり、神の生涯は、神の恵みに満ちたものであったということであり、彼の個人的な努力は才能によるものではない、ということです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.ソロモンの願い
ソロモンは、エジプトの王パロの娘と政略結婚をしたとある。この結婚は王位継承後、直ぐの出来事で、ここで言われるパロは、第21王朝のシシャクであったと考えられている。既にソロモンは、王位に着く前に、アモン人のナアマという婦人と結婚しており、子どももいた(14:21)。ソロモンの結婚は当時国際間協調に生きるためには必要なことであったのかもしれないが、これがやはり晩年の偶像礼拝のきっかけになったであろうことは、否めない。
しかしながらダビデもそうであるが、そんな弱さを持ったソロモンもまた、王位継承者として神に選ばれ、豊かな恵みを受けている。彼が主を愛し、父ダビデの掟に歩んでいたことは確かなだったのだろう。申命記には、「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである(5:10)」とあるが、まさに神の言葉の約束を確認するところである。さて、ソロモンの夢をどのように解釈したらよいのだろうか。
通常は、知恵を祈り願い求める根拠とされるところである。そして多くは、そこに未来的な繁栄の期待を込めた祈りをするきっかけとされる。
ただソロモンが夢の中で願い求めたのは、今現に神に与えられた使命を全うするための「聞き分ける心」(9節)であった。ソロモンは言う「民はあまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど大勢である」(8節)と。ソロモンは、漠然と知恵を求めたわけではない、自分の能力を超えた途方もない責任を委ねられて、ただ神に寄りすがる思いで、その責任を全うするために、「聞き分ける心」を求めたのだ。ある意味で、彼は真面目な男であった。彼は長寿も、富も、敵のいのちも願わなかった、と神に評価されているが、彼は、自分の職務を真面目に考えて、取り組もうとする男だったのである。つまり彼は然るべき時に、然るべきものを求めた、と言うべきだろう。そのように分を弁えながら、神に与えられた使命に応えようとする意志を持つ者であればこそ、神もこれに豊かな報いを与えられることはよく理解できることである。神は、ソロモンに「知恵と判断の心」を与えると語られた。知恵は、ヘブル語でハハム、それは、技術的な仕事に精通していること、つまり、工芸品、金細工人やその他の職人的能力があることを言う。また、エジプトのヨセフのように行政管理において賢明さがあることを言う。さらに、倫理的、宗教的な賢明さを言う。また判断は、ヘブル語でビン、それは区別することが原意である。そこから一般的に理解すること、慎重に考えて、理解し、見分けて、これを扱うことができることを意味する。確かに、そのような神の約束は、神殿建設にしろ、行政手腕にしろ、ソロモンの生涯において実現した。となれば、彼は知恵者だと言われるが、それは、彼が知恵ある者だったことを意味せず、まさに「小さな子どもで、出入りする術を知らない者」を神がいかに約束通り祝福したか、彼が父ダビデと同じ、神の恵みの人生を生きたか、ということをここから理解しなくてはならない。そして私たちも神の恵みの人生を歩むことは保証されているのであるから、余計な欲を出さずに、然るべきポジションにおいて然るべき時に然るべきものを求めることが大切なのである。
2.ソロモンに与えられた知恵
 さて16節からは、具体的に、然るべきものを求めたソロモンに然るべきものを与えられたことを示すエピソードが続く。二人の遊女が正しいさばきを求めて、引き出されてきた。本来は役人あるいは長老によるさばきがまずなされたはずであるから、この問題は、難問であったのだろう。
 ともあれ、遊女は王の前で言い争った。死んでいるのがあなたの子で、生きているのは私の子であると、どちらも譲ろうとしなかった。そこで、王は、剣で子どもを半分にし、二人で分かち合うようにと語る。というのも、真に子どもを愛する母ならば、そのような判決には耐えられないと考えたからなのだろう。実際、憐れみのある女こそ母として親権を勝ち取るにふさわしい。王の判断は当たっていた。論理性はあっても非情な判決に、「哀れに思って胸が熱くなった」母親が、母親とされるのである。
 物事には白黒をはっきりさせようとするだけでは、解決しないことがある。事の真偽を見定めようとしても、それは分からないことがあるからだ。そのような場合には、最もふさわしい結末を予測し、結論を導き出すことも大切なのだろう。確かに情のない母親に育てられるよりも、情のある母親に育てられた方が真実である。神の与える知恵は如才のなさとは違う。それは、誰が見ても納得し、受け入れられるものである。ヤコブは語った。「上からの知恵は、まず第一に清いものです。それから、平和で、優しく、協調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もありません(3:17)」神を愛する者には、そのような知恵が与えられることを覚えたいものである。

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