2列王記14章

14章 アマツヤとヤロブアム
<要約>
おはようございます。アマツヤとヤロブアム、どちらも神に忠実な王ではありません。アマツヤは、神を信じていても、自ら神に近づき、神に迫る信仰者ではなく、ヤロブアムは全く神に背を向けた王でした。しかし、神が彼らを用いられたのには、それなりの理由があるというべきです。聖書は、苦しむイスラエルを、ヤロブアムによって救われた、と記します。矛盾に満ちた社会にあって、主の救いの業がなされる、主の助けが進められる。今日も、あなたが主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.アマツヤの信仰
 ユダ王国10代目の王アマツヤのエピソードが描かれる。アマツヤは、主の目にかなうことを行ったが、ダビデのようではなかった。つまり彼は、完全に神に従ったわけではない。彼もまた父ヨアシュと同じように中途半端だった、ということなのだろうが、実際に、中途半端であったというのはどういうことなのだろうか。問題は、エホヤダがあってこそ信仰が守られたヨアシュのようなもので、自ら一人で神に迫るものを欠く信仰である。良い王であることを求め、良い信仰者でもあろうとする。しかし、ヤコブやダビデのように激しく神に近付き、罪を悔い改め、祝福を求め、失敗を重ねつつも、主に生きることを求めるような者ではなかった、ということである。その違い、その差は、わかりにくい人もいるかもしれない。
 実際、平行箇所である2歴代誌25章を読むと、もう少し詳しくアマツヤの言動が記されているが、彼は、自信のない時には神の人に聞き、神の人に聞き従っているが、人生が好転し、上り調子になると、神の人を退け、自らの判断によって物事を進めている。神に従っているようで従っていない。神を求めているようで求めてはいない。つまり神は自分のしもべなのである。本来神を自分の主として生きていくならば、自分が調子づいた時には、ますます、その力をどのように用いていくべきか、謙虚に神に聞いていくものだろう。自分の力を自分の勢いを増すために使っていく思い上がりに陥ってはならない。
弁えが必要だ。パウロは言う。「だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい」(ローマ12:3)。自分を正しく知ることなくして、信仰者としての堅実な歩みはなしえない。また神に迫る信仰の歩みもない。
列王記の著者は、高ぶったアマツヤがイスラエルに打ち負かされたことを記録する。エルサレムの城壁をエフライムの門から隅の門まで、400キュビトに渡って打ち壊した、という。現在のダマスコ門から北側の城壁を討ち壊したということだろう。エフーの子エホアハズは、略奪を働いたが、実際には、取るべきものはなにもなかったとされる。というのも、エジプトの王シシャク(1列王14:25-56)、そしてハザエル(2列王12:17-18)によってめぼしいものは、ほとんど取り去られていたからである。また人質は、おそらく官僚であったとされ、その中には、神殿の歌歌いもいて、神の家に戻ることを願って、詩篇42,43を書く背景になったともされる(ドナルド・J・ワイズマン)。
2.イスラエルの歴史ヤロブアム2世
続いて列王記の著者はイスラエルの歴史、ヤロブアム2世のエピソードを取り上げる。彼はサマリヤで、41年間王であったという。実に長期にわたる治世である。しかも、彼は、レボ・ハマテからアラバの海までイスラエルの領土を回復した、という。レボ・ハマテ、イスラエルの占有地であった北側はほぼソロモン時代の国境まで回復している。イスラエルは繁栄の時代を取り戻したというわけである。それは誰の目にも、ヤロブアムの手腕のなせる業、と映ったことだろう。しかし、列王記の著者は、ヤロブアムは「主の目の前に悪を行」ったと評価し、その繁栄も、「主がイスラエルの悩みが非常に激しいのを見られ、イスラエルを助ける者もいなかった」(26節)ので、悪王であるヤロブアムを用いられたのだ、と説明しているのである。
 神の目は、ダビデやソロモンだけに注がれているわけではないし、ましてヤロブアム、アマツヤのみを相手にしているわけではない。神はイスラエルの民をご覧になり、その悩みが非常に激しいのを見ておられる。だからこそ、悪王であれ、これを用いられることもある。主のなさることを、私たちは理解しつくすことはできないが、主は私たちの悩みを理解しておられることを覚え、主に自らの悩みを訴えることとしよう。

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