2列王記15章

15章 ウジヤ
<要約>
おはようございます。神に自ら近づき、神と共に生きることを願う、主体的な信仰を生きる人は、少ない者でしょう。しかし、たとえそうでも、人は人、私自身がどうであるかが重要なのです。全ての決定権を持つ主を認め、恐れ、主に従っていく、そのような者でありたいものです。今日も、あなたが主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.
1. アザルヤ(ウジヤ)王の信仰
イスラエルの王ヤロブアム2世の第27年に、ユダではアマツヤの子アザルヤが王となった。アザルヤは13節で、ウジヤと言い換えられている。つまりアザルヤはウジヤと同人物である。彼は、イスラエルの王ヤロブアム2世に勝る51年の長きにわたり、王位を維持した。しかも2歴代誌26章によれば、彼は、軍事力を増強し、農業を発展させ、大いに成功を収めた王となったとされている。列王記も、彼は主の目にかなうことを行ったと評価している。ただし、「高きところは除かなかった」と条件付きである。
「高き所」は、ヘブル語でバーマー、単純に小高い丘などを意味することばであるが、実際に高い場所でなくても、祭儀場や祭壇を意味することばとして用いられていた。実際、ソロモンが神殿を建てるまでは、イスラエルの民も、いけにえを献げるために、高き所を用いていた(1サムエル9:12、10:5)。しかし、神殿建設以降、高き所を用いた祭儀は、土着の異教的な宗教が行うそれと区別がつきにくくなり、次第に「高き所」のそれ偶像礼拝と見なされるようになっていった。だから、ヒゼキヤや(2列王18:1-4)ヨシヤの宗教改革も(2列王18:1-4)「高き所」の破壊から始められている。実際それは、ただ偶像崇拝の場としてあったばかりではなく、官能的な儀式を伴う偶像礼拝のために、売春や神殿男娼がはびこる場となり、イスラエルの罪を増幅することになっていたからである。同時代の預言者イザヤは、繁栄を極めていたユダ南王国の現状とは裏腹の「反逆に反逆を重ねて。頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てている」(イザヤ1:5)堕落しきった霊的状況について語り伝えている。
2.人生の決定権は神にある
にもかかわらず、アザルヤ(ウジヤ)は高き所を取り除こうとしなかった。彼にしてみれば、偶像崇拝も、まことの神の礼拝も、それほど変わりはなかったのだろう。実際彼の信仰は、祭司エホヤダに支えられたヨアシュのように、ゼカリヤという助言者に支えられた信仰であった。アザルヤは、神の存在を認め、自ら神に近づき、神と四つ手を組んで共に生きようとする人ではなかったのである。神を求めなくてもそれなりに成功している彼からすれば、それほど熱心に神を求める必要もなかったのだろう。「信仰を持たなくても人生において成功することはできるなら、信仰を持って何の意味があるのか。」多くの人は思うはずである。だが、その意味は多いにある。
5節、「主が王を討たれたので、彼は死ぬ日までツァラアトに冒された者となり、隔離された家に住んだ」とある。どんなに人生に成功したとしても、それが一瞬にして失われることがあるものだ。人生は最期まで生き抜いてみないとわからない。人は「運が悪い」という言い方をするが、聖書は、「主が」と人間の人生を支配される神の存在を明らかにされる。アザルヤは長期政権を誇ったが、その後半は、病に冒され、隔離される人生を生きた。「主が家を守るのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。あなたがたが早く起き、遅く休み、労苦の糧を食べたとしても、それはむなしい、実に、主は愛する者に眠りを与えてくださる」(詩篇127:1)とあるとおりだ。人間にはいかんともし難い限界があるというべきだ。神を敵に回して、人生に勝利はあり得ない。人の命を握り、人が住まう環境を支配する神を敵にして、その方の権威を認め、その方の元に遜り、その方を中心として人生を再構成するのでなければ、そこに、どんな人生の保障があるというべきだろうか。
3.神を認めない王たち
8節以降は、長期政権で安定していた南ユダ王国に対して、北イスラエル王国の政変ぶりが描かれている。北側のイスラエルでは、ヤロブアムの死後、王朝がめまぐるしく変化した。預言のとおりにエフーの王朝は4代で終わり、その後は、メナヘムの2代を除いて1代限りの王が続く。この箇所を読んで印象づけられるのは、そのいずれの王たちも、南ユダ王国の王たちとは違って、神を認めず、神を畏れようとしない王たちだ、ということである。在位10年のメナヘムは、ティフサフという場所に住む人たちが、城門を開かなかったという理由で、残虐な仕打ちをした、と記録されている。感情に任せ復讐心を爆発させた権力主義の、恐怖による支配である。神を認めないところに、このような人間の横暴がある。また、王位は、その子ペカフヤに受け継がれたが、ペカフヤは、侍従によって殺された。侍従は王の側近で本来、最も信頼されるはずの人である。このような有りえない裏切りが、起こるところに、神を認めない弱肉強食の世俗社会の混乱がよく描かれている。
神の存在を認めない国々は多いだろう。神がおられる?めでたいことを言うね、という社会の中で、神がおられないかのように、神を認めない者たちが成功する世の中があることだろう。
その中でいかに、神を中心に人生を再構成して生きていくかは、大きなチャレンジである。家庭や、社会、そして国際政治のあらゆる領域に神の御手の動きを感じ、実際に神に近づき、神と共に生きることを望み、世の光、地の塩と輝いて生きていくことは、ぼーっとして生きていてできることではない。人に言われればそのように動くと言うだけの信仰であれば、それはアザルヤ的なあり方である。自ら主体的に神を求めて生きていく、そこに、教会を愛し、教会生活を楽しむ、そして、神を証する真の力も生まれるのだ。

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