2歴代誌2章

2章 ソロモンの神殿建設準備

<要約>

おはようございます。庭にあるブドウの実が膨らんできました。つい数週前は、3ミリほどの小さな粒であったのが、今や、まぎれもないブドウの房になりつつあります。この夏を過ぎる頃には、立派に色づいた房になることでしょう。徐々に形作られるものがあることを改めて感じます。聖書通読の忍耐をもって先に進みながら、自身の変化を楽しんでまいりたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.献げる礼拝

ここに記されたソロモンの神殿建設事業に関する平行記事は、1列王記5章にある。1列王記のものと比べ、ソロモンからフラムへ、またフラムからソロモンへの通信文が随分と詳しく描かれている。その中で、ソロモンの決意は、「いけにえをささげる」動機に基づいていたことがわかる(4節)。ソロモンは、ギブオンではなく、エルサレムで、神にいけにえをささげようとしている。礼拝の本質は、ささげることにある。パウロは「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい(ローマ12:1)と語ったが、まさに私たちの礼拝には、そのような部分が必要なのであって、礼拝は、説教を聞きに行く、讃美歌を歌いに行く以上のものなのだ。

しかも、ソロモンは、朝ごと夕ごとに、安息日ごと、新月の祭りごとに、そうしようと考えた。日本人であれば、神々に改めて参拝しにいくのは、新年ごとであろうし、クリスチャンになれば、安息日ごと、つまり主日ごとと教えられるところであろうが、彼は、加えて朝ごと夕ごとに、自分自身をささげる時を持ったのである。ソロモンは言う「主よ、私はあなたのものであり、あなたのしもべであり、今日もあなたに従います。」あるいは、「今日も主よ、私はあなたにお仕えできることを感謝します」、と主に語り、神に栄光を帰す時を設けていく。こういう人生を日々積み重ねるならば、私たちの有り様は根本的に変わらざるを得ない。全き神のしもべとして、神に献げきった心をもって生きるところに、礼拝の民の歩みがある。

聖書通読を進めながら、私が大事にしたいと思っているのはこういうところである。やはり聖書を読むたびに、神に出会う、神と向かい合う。そして神に献げる心をしっかりと持つのである。それがなければ、どれほど聖書を読み重ねても、生活に変化は起こってこない。

2.神殿へのビジョン

さて、ソロモンは、そのような場である宮を、壮大なものにしようと考えた。というのも宮は、栄光の主が臨在される場である。事実主は、すべての神々にまさって偉大な神である(5節)。ソロモンは宮をそのような神にふさわしい場にしようと考えた。ソロモンはそれが自分の力を超える事業であることを素直に認めている。そして、ツロの王フラムに製造、彫り物、製材の技術者を送るように求めている。

教会を建て上げることも同じだ。「わたしの建てる宮は壮大であり、みごとなものだからです」というビジョンがあれば、それなりの準備と人材の協力を考えるだろう。大切なのは、ソロモンのそうしたビジョンに、神が理解を示す人材を起こしてくれたことである。フラムは、異国の王であり、異教の地の王でありながら、「天と地とをお造りになったイスラエルの神、主はほむべきかな」と、ソロモンの信仰とその必要への理解を示している。神は、捕囚の民イスラエルが、祖国に帰還しエルサレムの神殿を再建できるように、ペルシャの王クロスを用いられた。神は、異教の王の心を開き、まことの神の働きに対する協力を惜しみなくさせることがある。神はそのように敵と思える者すら私たちの味方につけてくださるお方である。今日も、その神を自分の味方とし、神にすべての道を開いてくださるように祈りつつ歩むことにしよう。

 

 

 

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