テサロニケ人への手紙第一2章

パウロは、テサロニケに向かう前、ピリピで宣教をした。二回目の伝道旅行で、散々どの方向へ神様が導いているのか迷った末、主が与えてくださったマケドニアの幻に導かれて、即直行した先がピリピだった。そこでルデヤとルデヤの家族が救われていく。しかし占いの霊につかれた若い女奴隷の霊を追い出したために、パウロは、捕らえられてむち打たれ、牢に入れられてしまう。だがそこでも神の御業が起こった。看守が信仰を持つ思いがけない展開に至ったのだ。ただ、ピリピでの伝道はそれまでだった。パウロはそこからテサロニケへ向かうが、テサロニケでは、ユダヤ人の妨害があり、わずか滞在して会堂で福音を語るのみで、すぐに、ベレヤへ移動せざるを得なかった(使徒16:11-17:11)。パウロは、その時のことを振り返っている(2節)。

パウロは、ピリピで、むち打ちの辱めを受けた。それは単に身体的に苦痛を被ったという以上に、ローマ市民であるのに、そうではない者のように扱われた屈辱感を語っている。パウロはユダヤ人にも非ユダヤ人であるかのように扱われたのであるが、ピリピでは、非ユダヤ人であるローマ人から人間以下の扱いを受けたのである。そしてむち打ちのあざがまだ癒えぬ状況のまま、一見何事が起ったかという様相で、パウロはテサロニケの会堂で福音を語った。ユダヤ人の妨害運動が強く起こったのも、当然と言えば当然である。しかし、そういう中で、パウロが純粋な心で語る福音に耳を傾ける者たちもいた。それがテサロニケの教会の初穂だった。おそらく、パウロの宣教に対して、それは誤りであるとか、不順な心で語っているのだとか、騙しごとであるなど、様々な批判が即座に起こったのだろう。けれども、パウロの外見にも、パウロの当時の状況にもかかわらず、パウロが語りかける純粋な福音に耳を傾ける者たちがいた。それはまさに神に与えられた機会であり、神と一つ心になって宣教をする機会であったと言える。神に委ねられたものを、神が喜ぶように語る、神に対する責任として語る時であった。

そうであればこそパウロは、権威ある者のように語るのではなく、遜り、敢えて言えば母親のように関わる時であったと回想する(7,8節)。「母親のように、幼子の言葉で話し、養い育てた」ということである。まさに福音を語り伝えることにおいて心通う、優しい時があった、ということだろう。

そしてパウロは、その当時は、父親のようにかかわる時でもあったと思い起こす(9-12節)。パウロは、宣教のための「労苦」と「苦闘」があったことを伝えている。労苦は、労働に伴う疲れを意味する。確かにパウロは、伝道と生活費を稼ぐ二つの働きのために、疲労感を覚えていたのだろう。父親の働きは、まず家庭を守ること。パウロは、テサロニケの教会の経済的必要に負担をかけさせまいとして、昼も夜も働いた(9節)。おそらく、テサロニケの教会は、ユダヤ人の会堂での働きから生まれたのであろうから、パウロに恩義を感じても、経済的にパウロを支える余裕はなかったと思われる。だからパウロは余計な気遣いをさせまいと働いた。そして、子どもによい模範を示す父親のように、パウロは敬虔に、正しく、責められるところがないようにふるまった。そして、語るべきことを語り、教育した(12節)。

そういう関りの中で、パウロは、テサロニケの教会の人々が、パウロの語ることを、神の言葉として受け止めた主にある兄弟姉妹である、という印象を深く持っている。ただ、その結果は、パウロと同じ扱いを同胞から受けることであった。ユダヤの会堂の中から生まれた教会であれば、当然通るべき試練であったのだろう。パウロは、ユダヤ人の神の前に対する罪を告発している(15節)。彼らは異邦人の間で神の救いのみわざが宣教されることに反対した。その結果、神の怒りを、窮みにまで高めている、という。いわゆる終末における裁きを招く事態に陥っている、という。17節には、「しかし」という反意語が省略されている。先のユダヤ人の姿に対比して、しかし、私たちは、ということだろう。ユダヤ人の反対の激しさに対比して、私たちはテサロニケの教会の人々を切望している、ということだ。それは、福音で結びつき、キリストの苦しみを共にしているという思いがあればこそである。迫害も試練もない平和な状況下にあってこの書を読むのと、同じ禁教下で暴力にさらされながらこの書を読むのとでは、感動の差があるのではないか。福音を分かち合える仲間がいる、キリストの恵みを語り、そこで心通じ合え、一つになれる同胞がいるこれは大きな祝福である。

江戸時代の切支丹殉教の話を聞くと、当時の切支丹の信仰は、十字架による救いが十分解かれておらず、彼岸的祝福に終始し、教理的理解は不十分であったのではないか、と言われることが多い。しかし「どちりなきりしたん」をはじめ、当時イエズス会が用いた多くの教書には、十字架による救済信仰がプロテスタント福音派のごときに語られ、厳しい倫理と現益の超脱を求め、究極的にはキリストの救済に倣い、いのちを奉献することを解いている。実に、キリストの恵み、福音の祝福を分かち合う群れである喜びを、教会においてこそ深く味わいたいものである。次週の礼拝に向けて整えられて行きたいところである。