テサロニケ人への手紙第二2章

2テサロニケ人への手紙2章 終末に生きるキリスト者
1.終末の前兆(2:1-5)
既にパウロは、1テサロニケの手紙で、キリストの再臨が確実であるとしても、その時はだれにもわからない、と明言していました。むしろ、その時がいつでもよいように、目を覚ましているように、と語りました。ただ、テサロニケ人への手紙第二では、もし目を覚ましていれば、少なくとも二つの前兆に気づくだろう、と言います。
一つは、背教です(3節)。背教は、ギリシア語でアポスタシア、政治的、宗教的な反乱を意味します。政治的反乱も、神が立てた制度に対する反乱と考えれば神への反逆です。となると背教は、世をあげて神に逆らう時代になる、ということです。神の存在を否定する時代的世相、それが、終末の徴候だ、というわけです。
そしてもう一つパウロがあげるのは、8節、「不法の人、すなわち滅びの子」が現れることです。ギリシア語で「ホ・アンスローポス・テース・アノミアス」、これは一種の慣用表現で、破滅に定められた者を意味しています。世の終わりの時には、人の子が栄光のうちに現れる、つまりイエスが再臨される、けれども、滅びの子もまた姿を現してくる、と言うのです。ヨハネは、「不法の人」ではなく、「反キリスト」という言葉を使っています(1ヨハネ2:18)。一体それは誰なのか、興味深いところで、歴史的にもそれは様々に議論されてきました。ヒトラーがそうであると言われた時代もありますし、具体的にはわかりません。ただ終末的だなあと思われる状況というのは、自分こそ神であるとし、世界にその力を示そうとする者が現れる事でしょう。確かに核戦争時代に入ったこの時代、ヒトラーのように国家的な組織力をもって世界を席巻するような人が現れたら、それこそ世も終わりかもしれませんね。まあ当たり前のことを言っているかなあと思います。
2.私たちの対応(2:6-17)
ただ聖書の関心は、いたずらに終末に関する恐怖を煽ることではありません。パウロは、まず6節、こうした二つの兆候を引き止めているものがある、またその、タイミング、「定められた時」がある、と言います。天地万物を支配している神様が、そのような終末の時も支配しておられる、と言います。そして、たとえそのように、世界を席巻する傍若無人な人物が現れたとしても、神がその人を裁かれる、神が滅ぼされる、と言います。その時に、同じように、悪に加担し、人々を苦しめた者たちも滅ぼされると言います。つまり終末は神の正義が執行される時だ、と言っているのですね。
世の中のカルト的宗教は、いついつ世の終わりが来るから、といたずらに恐怖心を煽ろうとします。そして、入信者を増やそうとします。しかし、聖書が語る世の終わりは、神に支配され、正義が執行される時です。ですから、正しいことをなさる神を恐れて生きていれば、特段恐れることではないですね。ですからパウロは、テサロニケの人々に、神を信じ、聖書の教えに従って生きている人々にとって、終末の時が近づいているのであればこそ、17節、淡々と「あらゆる良いわざとことばに」進むように語るのです。確かに、宗教改革者のマルチン・ルターが言ったとも言わなかったとも言われる「たとえ明日、世界が滅びても 今日、私はリンゴの木を植える」というごとく、淡々と、神の前に一日を大切に過ごすまでですね。では今日も良い一日となりますように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズですが、「聖書が、神に裁かれる時の基準として語っていることは何でしょうか?」答えは③イエスを信じるか信じないか(ヨハネ3:18)です。イエスを信じることは、イエスの十字架にある罪の赦しを受け入れることです。罪の赦しを受け入れないならば、当然裁きは避けられません。では、今日の聖書クイズを一つ。パウロが使う「滅びの子」はそもそも、どこから来たことばでしょうか。①旧約聖書の預言、②イエスの造語、③パウロの造語、答えはまた明日。では今日もよき一日となるように祈ります。
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