テサロニケ人への手紙第二1章

2テサロニケ人への手紙1章 確かに神は生きておられる
1.手紙の背景とパウロの感謝(1:1-5)
パウロがテサロニケに滞在した期間はわずか3週間でした(使徒17:3)。敵対するユダヤ人に追われるようにして、パウロは、生まれたばかりの教会を迫害と困難の中に残して、急遽退去せざるを得ませんでした。その後のテサロニケの教会がどうなったのか、パウロは心配に心配を重ねましたが(1テサロニケ2:18)、パウロの代わりにテサロニケの教会を訪問したテモテは、朗報をもたらしました。教会は神の恵みに守られて、しっかりその働きを続けていたのです(1テサロニケ3:2-3)。このよい知らせに応じて書かれたのが、テサロニケ人への手紙第一でした(1テサロニケ3:6-7)。第二の手紙が書かれたのはそれからまもなくです。それは、第一の手紙で書き送った主の再臨と主の日についての教えに新たな誤解が生じ、ある信徒が怠惰と思われるような生活を始めたこと、さらに迫害が厳しくなったことがパウロの耳に入ったためでした。
そこで手紙を見ていきますが、まずパウロは、彼らの信仰が目に見えて成長していることに感謝しています。彼らの愛はいよいよ豊かに表されていました(3節)。彼らの信仰の成長は、愛で確認されたのです。しばしば苦難は、人を自己中心にするものです。しかし、彼らは苦難にあって、お互いに対する関心、思いやり、心遣いに溢れるようになっていました。それはまさに、神の御業として、テサロニケの教会が建てあげられていたためなのでしょう。迫害や苦難は神がおられない証拠だ、と言う人もいますが、全く逆であり、彼らは迫害や苦難の中にあって生ける神の愛と恵みに変えられていたのです。神にしっかり結びついていたからこそ、良い働きを続けられた。それは、5節「神の正しい裁きがあることの証拠」でもあったのです。
2.神の裁きの確実性(1:6-12)
そこでパウロは、「神にとって正しいことは」と、大胆に信仰者としての確信を語ります。神は、「あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息をあたえる」(6、7節)。実に神は正しい方です。生きておられる神を侮ってはいけません。神は正義の神であって不義を見過ごされることはありません。しばしば人は、神の裁きを信じないことでしょう。しかし、神は愛であると同時に(1ヨハネ4:8)、光であり(1ヨハネ1:5)、正義です。不正を正さない正義はないことでしょう。パウロは、神の前に悔い改めることもなく、悪を行う者には、永遠の滅びの刑罰があるとはっきり語ります(9節)。キリストの救いの計画は罪人を赦し、罪人を神と和解させるものですから、それを拒むならば、当然の論理的な帰結です。復活の主イエスは、必ず目に見える形で再臨される。イエスが初めてこの世に来られた時は、全人類に救いの手段を伝えるため、二度目の再臨は、神の裁きを執行するためです。ですからその神を私たちは恐れなくてはならない(10節)、テサロニケの人々は素直に、神の福音を受け入れ信じた、というわけです。
そこで、11節、パウロは祈りをささげています。宣教は人間の業ではなく、神の業であると言われます。それは具体的に言えば、人は、神を知ることが無ければ決して悔い改めないということです。パウロがダマスコ途上で、復活のイエスに出会ったように、神がご自身を一人一人に現わしてくださることがなければ、神を信じることはないでしょう。とすれば、人間にとっての最善の伝道は、くどく繰り返し語るよりも、神のあわれみを祈ることでしょう。祈りが、様々な人々に救いをもたらし、教会を完成へと至らせるのです。今日、日本に神の福音が広まるために、何よりも大事にしなくてはならないのは、祈りです。教会の働きを信仰の働きとすることです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズですが、「キリスト教が今日、日曜日を礼拝日として定めことに影響を与えたものは何ですか?」答えは②復活でした。キリスト教では、ユダヤ教の安息日である土曜日ではなく、イエスが復活した「週の初めの日」(使徒20:7)に礼拝を守るようになりました。では、今日の聖書クイズを一つ、聖書が、神に裁かれる時の基準として語っていることは何でしょうか?①人の品性、②人の道徳的行い、③イエスを信じるか、信じないか、答えはまた明日。では今日もよき一日となるように祈ります。
<天草さんのフォローアップ>
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私の願いは、聖書が国民の愛読書になることです!