創世記1章

「初めに神が天と地を創造した」すべての根源である神が紹介される。歴史の始まりを造り、終わりを決められる神の物語である。神が語られるまで、何も存在はしなかった。神がこの目に見える私たちの世界を有らしめた、ということである。
初めから書き方は技巧的である。神がいかに形を与え、その内実を整えられたかを示そうとしているのであり、単なる地球の始まりを説明しようとしているのではなく、そこに神学的考察を加えている。また、これを記憶しやすくするための工夫をしている、と理解すべきなのだろう。そういう意味で、この箇所を科学的に、あるいは60億から130億とする地球の誕生や進化論の仮説と調和させて読もうとする努力は、聖書が目的とするところと合致してはいない、と思うところがある。むしろ、「日」は、文字通りの24時間ではなく、科学的に意味のある一定の段階を示す「時代」と解釈すべきものなのだろうが、神学的に理解するならば、神の創造のみわざは、六つの段階を経てなされ、今なお継続している、と語っているようでもある。つまり、第二章の初めで、第七日について書かれている箇所を読んでいくと、前の六日間のそれぞれの日の終わりを示す「夕となり、また朝となった」という文が欠けているのに気づく。つまり、第七日の終わりがまだ来ておらず、私たちは、第七の時代に、要するに、神がすべての創造の業を終えて休まれているその日にいると考えることができる。となれば、第七日は今も続いているのであって、それは一つの時代なのだということになる。
一方で、この六日間は、記憶的に意味のある六回にわたる啓示と理解することもできる。実際、この天地創造の物語はよく構成された書き方をしている。それは、口伝でこの記事が語り伝えられてきた歴史を物語っている。つまり、創世記に出てくる日は、年代的というよりは、論理的順序に従っている。著者は類似した事柄を集めてグループに分け、それらを六日間の記憶しやすいフレーズにまとめたというわけだ。確かに、創世記が長く語り継がれ、記憶されるものとして伝えられてきたのであるとすれば、それは理解されることである。実際創造の六日間は、第一日と第四日、第二日と第五日、さらに第三日と第六日の内容がそれぞれ形とその内実を語っている。つまり第一日は、光と闇、第二日は、海と空、第三日は肥沃な地、という形が造られ、それに対応して、第四日は、光と闇に昼と夜の光が満たされ、第五日は、海と空に水と空の生き物が、第六日は、地に生き物が満たされている。また、よく読めば、各創造日ごとに、創造行為→機能の付与→確認行為という、一定のパターンが繰り返されている。 神の創造行為は、無から有を生じさせる、いわゆる創造行為と、すでにあるものを配置する、二種類の書き方がなされている。また、創造の結果、被造物に一定の機能が与えられるが、これは、区別、活動、祝福の3種の書き方で示されている。最後に、神が創造した行為についての確認の記事が続くが、これは、第1日から第3日では、命名という行為で示されている。各創造日ごとに、創造行為→機能の付与→確認行為という一定のパターンで、書かれていることは明らかで、天地創造の始まりを説明するよりも、神が意図的な、創造者、全能者であり、全地は神の被造物であることを説明しようとしているのである。
この語りかけに、私たちは自分たちの中にある自然崇拝的な生活感情、宗教感情に気づかねばならない。吉日や仏滅といった日についての考え方、新聞やテレビの占いや運勢など、小さなことで遊びのようにも思えるのだが、実際には、結婚など何か重要なことを決める時に、こうしたものに縛られる感情がある。しかし、神の創造を深く経験的に理解する時に、こうしたことから解放され、自由になっていく。大切なのは、神を抜きにして人間と世界だけを突き合わせて物事を考えているだけでは、わからない、あるいは自由になりえないことがある。人間もまた全被造物の一部であり、創造者の恵みの中にあるという思考を持つ時に、私たちは深い謙虚さをもって、神と被造物という構造の中で、人間と世界を考えていくことができる。そして、現代に起こっている様々な問題、科学と技術の進歩、特に生命科学、また資源や環境の破壊、核問題などの可能性と脅威に対して、懸命に、正しく、知恵深くあることができるだろう。創造信仰は、幼稚で無知蒙昧な考えであると見なされることは実に残念なことであり、むしろ創造信仰こそが、自然科学や技術が直面している課題に光を投じる、と言うべきだ。
人は、他の被造物と共に、六日目に造られた。人間も神の被造物である、ということだ。そして人間は「神のかたち」に造られた。つまり神に属するものとされていることである。となれば、神との関係を相応しく持つ時にのみ、私たちは全き人間性を経験するのである。そして、神のかたちに造られた以上、どのような人間にも、計り知れない可能性と重要性がある。人間が学歴や能力、また地位などにもよらず、尊重に値するのは、この故なのである。神は人に「すべてのものを支配するようにしよう」と語られた。それは、神のかたちに造られた目的ではなく結果である。私たちは死を除くあらゆるものを支配している事実がある。しかし、それは、神の創造の秩序の結果であって、神抜きに支配する権利を与えられたわけではない。すべては神から出て、神を目的とするものだからである。聖書の神は、石や木でできた神ではない。むしろ、私たちをお造りになったお方、私たちのために「非常によかった」と言われる舞台設定をし、人間をお造りになったお方である。
 無から全てを生み出された神がおられる。「光よ。あれ」と語ることによって光を生み出された神。この神を信じていくところに、いな、信じられるように心が導かれていくところに、私たちの新しい人生も開かれていく。今日もこの神と共にあり、神が備えられた場に生きていることを覚えて、歩ませていただこう。