創世記2章

2章は、第七日目の記事から始まる。神はこの日を祝福し、聖別された。旧約の安息日の思想はここに根ざしている。一方、新約の主日の思想は、弟子たちが復活の主にお会いした日という事実に基づいている。いずれにしろ、この日、私たちは喜びと信仰を持って神に近づき、その安息に憩う(を守る)のである。
さて神は、一章において、人間を「神のかたち」に創造されている。それは、神にも手があり足があり、顔がありという外見的なことではなく、愛や聖さといった心のかたち(エペソ4:24)に似せて造られた、ということだろう。現代の神学者は、かたちの意味を関係的(神との特別な関係にあること)に捉えるが、実質的(人間の特色や性質)にとらえて問題はない。そして、人間が、神に似せられた実質を与えられたことの意義は大きい。というのも、人間にとって大切なのは外見ではなく中身である、いのちである、と言い切る根拠を与えてくれるからだ。神の聖さや、神の正しさ、神の愛に似せて造られたからこそ、人間は外見がいかようであれ、尊い存在であり、生きる価値ある存在なのである。エレファントマンという古い映画がある。主人公は、非常に醜い姿で生まれ、その外見が象のようであったことから、人々は、彼をエレファントマンと呼び、見せ物小屋で見せ物となって働かされていた。そんな彼が、詩篇23篇を朗読し、それによって彼が、尊いいのちを持った人間であることに気づかせてくれる感動的な映画である。神のかたちに造られた者として自分を自覚するのか?また、同じように、神のかたちに造られた者として他の人々を認めていくのか?こうした意識のあるなしが、その人の人への関りを変えていくのである。
 ただ、私たちの現実は、神のかたちに造られていながら、その神のかたちを歪められている。実際、人は、平気で嘘をつき、ごまかし、騙し、神のかたちには程遠い姿にある者だ。それが人間と開き直るのではなく、堕落し的外れになり、人間としての機能が狂わせてしまった罪人である現実を認めて、イエスにあってその神のかたちを回復していくことが、期待されていることである。
 人は、よりよい生活を求めて資格を身につけることに一生懸命かもしれない。またある人は、よりよい生活を求めて学歴を身につけたり、金を設けたりすることに一生懸命かもしれない。しかし、本来一生懸命になるべきことは、自分の神のかたちを回復させることである。それこそが私たちの人生を本当に豊かなものとしていく。
 二章には、その人間の創造の経緯が、さらに詳しく語られ、人間と神との関係が明らかにされている。つまり、人間は土地の塵で形作られた一塊の土人形に過ぎないものであった。他の被造物と大差はない。しかし、この土の器に神がいのちの息を分け与えられたことにより、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)と語られる、神にとっては特別な存在となった(7節)。また、このように造られたからこそ、「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る」(伝道者の書12:6)という最期を迎えることにもなる。
 神なくして人はありえない。神あっての人である。聖書が、神を「神である主」と言い換えるのは、神と人との特別な関係を明らかにしている。私たちにとってこの事実を知ることの問題は、創造の御業が、救済の御業に続くという逆転現象のためである。私たちは、まずキリストにある救いがわかって、自分の誕生が一体なんであったのかを考え、そして万物の存在は、神に起因するということを後付けで理解するのである。聖書が書かれた順序からすれば、神の創造から始まって、キリストの救済が語られるのであるが、私たちの体験は逆である。救いがわからなければ、この世が神によって造られたことも信仰をもって受け止めることができない。神を信じない人々にとって、この世が神に造られたなどという発想はばかばかしい限りなのである。
 さて神は、この人間にエデンの園を任された(15節)。神は人間をエデンの園に連れてくると、そこを耕し守ることを任された。人間は神の園の管理者として置かれ、またそれをよりよく用いるように任されているのである。そのような意味で、分不相応に、この世界を思うままに処理し始めると、人間と世界の関係は悲劇的な方向に向かうことになるだろう。私たちがこの地球に生きていることは当たり前のことではない。そうではなく、神が私たちを地球に連れて来られた、というのであって、それ自体が大変な主の恵みなのである。神が造られ、提供してくださったこの世界に感動し、この世界を喜び、大切にこれを守ろうとするところから、すべての医療、工学、産業の発展がなければならない。信仰というのは、神と人間だけのことではないのだ。人間と自然は共に神に造られたものであり、神は人間に自然を管理するように任されている。神が造られた世界の中にあって、被造物を含めて、神に仕えていくのが信仰の道である。
 なお18節、神は人間に、ふさわしい「助け手」を供えられた。男から取られた女である。男は女と結びついて、互いに助け合い、互いの人格を完成するものとして造られている。大切なのは、この最初のカップルの間には、「完全な安心感」というべきものが存在したことである。彼らは、「裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」という。そこには素朴ながらも完全な愛があった。興味深いことに、彼らは現代の人間が所有するものは何一つもっていなかった。iphoneも、携帯も、素敵なリビングも、車も、学歴も、地位も、子どもすらいなかった。しかし彼らは、完全な安心感の中にいた。こうしてこの章は、人間が暗にその安心感を失っていることを指摘する。
こうして聖書は、その最初の数頁から、人間にとって自然なこと、本来帰るべき場があることを語りかけてくるのである。