1歴代誌8章

8章 ベニヤミンの系図
<要約>
おはようございます。今日の箇所は、系図としての不完全さを感じさせるところです。それは、ちょうど、インクが擦れ、字が摩耗し、判読し難い古代文献をガラス越しに見ているようなものです。たとえそうであっても、そこに何かを伝えようとするメッセージがあったことは確か。それは何か、細かなところはわからないかもしれませんが、大筋を掴むと、こんなことが見えるというものがあり、そこを大事にすべきなのかもしれません。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.ベニヤミンの系図
ベニヤミンの系図は、すでに7:6-12で取り扱われているが、よく読むと7章と8章とではその内容に違いがあり、単なる重複ではない。たとえば、7章では、ベニヤミンの子どもは3人、8章では5人となり、長子のベラ以外の名前も異なる。ベニヤミンの系図は、他に創世記46:21、民数記26:38-40にも出てくるが、7章の系図の流れは創世記のものに近いし、8章の系図の流れは民数記のものに似ている。ベケルという名前は、ヘブル語では、「長子」を意味する単語と綴りが同じだ。となれば、8章、民数記の系列の方が正確ということになるが、いずれもベニヤミンのものだとしても繰り返される理由を考えなくてはならない。
一つの興味深い説は、7章の系図は、ゼブルン(6-11節)とダン(12節)の系図の写本上の誤りであるとするものだ。というのも、これまで歴代誌の著者が地理的なまとまりで記載し、ベニヤミン以外は、北イスラエルに所属する部族を描いているのが7章であるとする流れからすればそれも理解できるからである。ただ、それはまだ推測の域を出ていない。
なお、8:6-28にはエフデの系図が挿入される。士師時代にモアブ軍を一掃してイスラエルの独立を取り戻した(3:15-4:1)士師の一人エフデと同一視されることが多い。実際、別人の無名のエフデの系図が23節にも渡って取り上げられるとは考えにくいからである。
3.ダビデ家とサウル家
29節からは、サウルの系図となる。サウルとその四人の子までの系図(29-32節)と、サウルの息子ヨナタンから12世代までの系図(33-40節)の二つの部分からなる。
なお、サウルの系図は、9:35-44にも記録され、それは8章の系図とほぼ同一である。しかしこの系図も他の平行箇所、たとえば1サムエル記31:2、14:49などと合わせ読んでみると、調和しにくいものがあることは否めない。
以上、こうした系図は、当時のイスラエル人にとっても、煩雑で復元しがたいものであったことだろうし、日本人の私たちにとっては、もはや、復元された状況でしか見ることができない。ちょうど博物館で、ガラスケースに収められて展示されている古代の資料を見ているようなもので、復元されてはいても、不完全なそれを見ながら、当時の人々に与えた意味をあれこれ考えても、正確には捉えきれないものがある。つまり、聖書には、わからぬままに受け止めていかなくてはならない部分もあるということだ。
ただ日本人には無味乾燥な名前の意味を幾ばくかでも知ることがあれば、この系図もそれなりに読み味わうことができる。実際サウルの系図にあるサウルの子ヨナタンは、「主なる神の賜物」を意味する。ヨナタンの子は、メリブ・バアル、つまり「バアルに反対する者」という意味で、カナンの偶像バアルに敵対する存在を意図したのだろう。サウル、ヨナタン、それぞれの信仰が現されているところだろう。
しかしながら、ここで注目すべきは、サウル王が、ダビデにとっては、宿敵のような存在であったが、ソロモン以降王国が南北に分裂した際に、ダビデ家に忠実に仕えた点であろう。つまり、本来敵側に付くはずの者たちが礼拝の民に加わり、重要なパートナーであり続けたことである。ベニヤミン族は、自らの誇りを捨ててユダの側についたことによって、自分たちの活路を見出している。それはちょうどパウロがベニヤミンの誇りを捨てて、キリストについたことを連想させる。人間的な誇りを捨てて神の礼拝の民とされる祝福がある。キリストに赦された者として、立っていく者であろう。

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