コロサイ人への手紙2章

パウロは、自分の苦闘について知ってほしい、と語る。それは、キリストを真に知るようになるための苦闘である。既に述べたように、キリスト教信仰においては、キリストの素晴らしさの高さ、深さ、広さを知ることが全てなのである。

パウロの懸念は、当時教会を脅かしていたグノーシス主義的な異端であった。「あのむなしい、騙しごとの哲学」とパウロは警告する(8節)。グノーシス主義は、哲学的な異端で、霊肉二元論、つまり、霊はよいものであり、物質は悪いものであるとする考え方だ。そのような考えに立つと、神とこの世は直接つながりえないので、キリストが人であると同時に神であることはありえない。結果、神性が否定される。そこでパウロは、既にキリストが神であり、万物の創造者であることを主張していた(1:15、2:9)。また、グノーシス主義では、キリストの受肉も否定される。肉は悪なのだからイエスが受肉すれば、イエスは悪なる者となってしまうからだ。ただそういう結論は不都合であるから、グノーシス主義は、イエスが現実的な肉体をとったことを否定した。そのように見えただけだ、と仮現説を唱えた。そこでパウロは、既に受肉による贖いについても明言している(1:22)。

グノーシス主義の最大の異端性は、救いの理論である。つまり、神に至る救いの道は、この世から神に至る一連の流出物を通り抜ける、無限の階段を昇るようなものだと教える。そして、その道を通過するためには、特別な知恵と合言葉が必要で、それらを得ることが信仰者の務めであるとした。従って、救いは合言葉となる「知識」を得ることとされた。それはもはや、ただイエス・キリストの十字架の贖いを信じる、という単純な聖書の教えとは大きく異なっている。パウロは言う。「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されている」と。合言葉が必要であるとするなら、キリストに隠されている(2:1)、と。この「キリストの中に根差し、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くしなさい」と(2:7)。

当時こうしたグノーシス主義に教会は大きく影響を受けていた。その影響に巻き込まれないためには、キリストの中心性に目を向けることである。キリストを離れてどんな救いもないのである(2:12)。グノーシスの考え方は「知」が成熟の鍵である。しかし、クリスチャンはキリストに対する単純な信仰と持続的な信頼によって歩む。キリストに根ざし、キリストに建てられていく、キリストを中心としていく、これが成熟の鍵である。キリストが自分にとってどういう存在であるのか、そこをはっきりとさせていくことが大切なのだ。

キリスト教信仰は、知性主義ではない。かといって、行動主義、律法主義でもない。すがるな、味わうな、触るな、というような、禁じ手の宗教ではない。キリストとの人格的な交わりを中心にした信仰の歩みが大切なのである。これをしなければならない、あれをしなければならないと、そういう世界のお話ではない。だが、信仰をそういうものだ、と考えている人も多いのではないだろうか。毎週礼拝に出る、教会で奉仕を熱心にする、献金をささげる、日ごとに祈って聖書を読む、それは、キリストとの生きた関係の結果として育まれていくものである。キリストにあるいのちを得ずして、形だけを整えようとすることほど不幸なことはない。それらは肉欲を抑えきれないからだ。

キリスト教信仰は、共に死に、共によみがえったキリストとしっかり結びついて生きていく人生なのだから、キリストとのいのちある関係が大事なのだ。その上であれをしよう、これをしようと生きていく人生である。キリストとの生き生きした関係が中心である。

私たちが罪人である以上、的外れであることは避けられない。だから常にキリストという中心に立つように努め、ずれてしまった時には、悔い改めの手段を通じて、絶えずキリストという中心に自分を位置づけることだ。頭に堅くしっかりと結びつく歩みが求められている。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です