ヨハネの手紙第一1章

1ヨハネの手紙1章 神は光でありいのちである
1.かつての感動を語る(1:1-4)
先のペテロもそうでしたが、ヨハネもまた、間違った教えを説く偽教師たちに警戒を示しています。そして、あいさつや自己紹介、宛先もすっ飛ばして、冒頭から、当時もっとも影響力の強かった異端的な教え、グノーシス主義を意識しているような書き方をしています(1、2節)。つまり、当時のグノーシス主義思想は、キリストの実在を否定するような言い方をしましたが、ヨハネは、イエスは幻ではなく、具体的に人間の聴覚、視覚、触覚に感じることができるまことの人であり神であったと強調します。
既にイエスが天に戻られてから50年もの月日が経過し、ヨハネも老人となっていました。パウロやペテロも過去の人となっていて、イエスを直接知っている弟子、イエスと共に過ごした感動を語ることができる者は、ほとんどいなかったのです。そのような中で、ヨハネの円熟した目から、ヨハネがかつて経験した、キリストのいのちの感動が伝えられます。キリストの声を耳で聞き、キリストの素晴らしい働きを目撃し、キリストに魂を養われた興奮に満ちた3年間、その深い感動を、ヨハネはもう一度伝えようとするのです。それは、読者を、ヨハネが持っていた御父、および御子との確かな交わりに招くため、自分自身が持っている感動を共有するためでした(3節)。つまり、ヨハネは、読者に自分と同じ信仰と確信に立って欲しいと願っていたのです。
そこでヨハネは、グノーシス主義の低い倫理観、信仰的実践を意識し、光と闇の対比から語り始めるのです(5節)。光である神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩む、つまりは罪の生活を続けているのならそれは嘘である(6節)。むしろ、神の光の中を歩んでいるなら、神の光に照らされて矛盾のない歩みをするだろう、と。
2.光の中を歩む(1:5-10)
具体的にそれは、キリスト者の交わりを保とうとし、交わりを楽しみにするようになる、と(7節)。兄弟姉妹を避け、敵対し、相争い、交わりを断とうとする。それは、光の中を歩むこととは違う、と言います。神との交わりを楽しみとし、喜びとするのなら、自然に同じように神を愛する人々との交わりを楽しみとし、喜びとする、と言います。
また第二に、イエスの血によってきよめられることを求めるようになる、と(7節)。ここでいう罪は、故意的に犯す罪ばかりか無意識に犯してしまったものも含めているのでしょう。いや、私たちの、堕落した性質そのもののことを言っています。人間は存在することそれ自体が罪であると思わされるようなことがあるものです。確かに、人間は聖書が言うように罪人です。しかし、神の光を知り、神との親しさに生きるようになった者は、もはや、神との光のうちに留まることを求めるようになるでしょう。素直に自分の罪を認め、それを言い表し、主の聖めをいただく人生をよしとするようになるのです。罪を罪として認められるようになる、それが神を信じる者、神を光と認めて生きる者の特徴です。神が罪を告白するなら、赦し、すべての悪からきよめてくださるという信頼に生きる者の特徴です(9節)。
ヨハネはキリスト者が完全無欠な者ではない事実を直視しています。自分の心にねたみの思い、苦々しい思いがある、それを否定しないことでしょう。そのような自分を誤魔化さず、素直に認め、神の聖めを求めて生きる、これがキリスト者です。
ヨハネは、イエスに「雷の子」とあだ名されるほど激しい気性の持ち主でした。しかし、キリストに養われたヨハネは、後に互いに愛し合うことを繰り返し語る「愛の人」と呼ばれるようになりました。キリストのいのちがヨハネを変えたのです。私たちもキリストのいのちを求めて、キリストの光の中に歩むこととしましょう。では今日も良い一日であるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズです。「ペテロのギリシア語の通訳者としていつも同行し、後に福音書を書いたと考えられているのは、誰でしょうか?」答えは、①マルコでした。マルコはペテロの通訳者として活躍し、マルコの福音書はペテロの福音書と呼ばれることがあります。今日の聖書クイズを一つ。「ヨハネがイエスの弟子となる前の仕事は何であったでしょうか?①漁師、②取税人、③熱心党員」答えは、また明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

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