8章 祭司への任職
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。昨日の7章で、ささげ物の説明は終了です。今日はそのささげ物をささげる儀式を執り行う祭司について、その任職式について語られます。いつも語ることですが、その意義を理解することが大事です。私たちは主の祭司と言われるのですから、そこに、私たちのあるべき姿が示されているからです。それでは、今日も、皆さんの上に主の平安があるように。
1.祭司への任職(8:1-5)
8章から10章までがまた大きな区切りとなる。1~7章は、ささげ物についての定めであり、8~10章は祭司の任職の実際が述べられる。しかしながら、ここまで読んでの一つの印象は、かつて奴隷であったイスラエルがもはや奴隷ではない、ということである(エゼキエル16:7)。彼らは、整えられ飾られ、どの諸国からも独立し、神を礼拝する民となった。これ自体が、大変な祝福である。朝から晩までレンガ造りをする奴隷たちが、儀式マニュアルを手に、祭司の正装に身を包み、秩序ある礼拝を執り行うのである。この変化の大きさと、そのような変化をもたらした神の恵みをまず覚えるべきところであろう。
さて、ここは祭司への任職であるが、今日神を信じる者すべては祭司とされているのであるから、8章は、私たちにとっても重要な真理を教えている。そこで第一に任職のための招集(1-5節)が主と民の代表者の前でなされ、それから儀式に入っている。何百万の会衆を幕屋の入り口に集めるなど、果たして実際に出来たことなのだろうか、とも思われるが、この儀式は七日間続いたのだから、全会衆が代わる代わるにやってきたと考える説が妥当である。
2.任職の儀式(8:8-29)
まず、任職の儀式は、「水の洗い」から始まる(6節)。水の洗いは、今日で言えば水と御霊のバプテスマ(洗礼)を象徴する。パウロは言う。「あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです」(1コリント6:11)。
次に祭司にふさわしい着衣(6-13節)。「(モーセは)アロンに長服を着せ、飾り帯を締め、その上に青服をまとわせ、さらにその上にエポデを着せた。次に、彼に胸当てを着け、その胸当てにウリムとトンミムを入れた。また、彼の頭にかぶり物をかぶらせ、さらにそのかぶり物の前面に、金の札すなわち聖なる記章を付けた」(7-9節)パウロは、私たちに、霊的武具を身に付けるように勧めている。「腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、すべて消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。」(エペソ6:14-17)霊的な務めのために、霊的な装備が必要というわけだが、ユダヤの祭司制度に親しんで育ったパウロにとっては、万人祭司の真理に到達した際に、神に近づくための、神の聖なる奉仕を遂行するための装束が、私たちには必要であることを考えていたのだろう。パウロは、神の奉仕を聖なる神殿に仕えるのみならず、福音を世界に広く告げ知らせる聖なる任務を意識して、聖なる装束をもっと霊的に、もっと積極的にイメージした部分があるだろう。
そこで第三の儀式として、聖なる務めにおいて重要視され、聖霊の油注ぎが行われる(10-13節)。イエスは言われた「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そしてエルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」イエスの油注ぎによって私たちは聖別され、神の用を果たす者とされる。
第四に、罪のきよめのささげ物と全焼のささげ物、そして任職のためのささげ物による職務への聖別である(14-29節)。任職のためのささげ物は、明らかに、罪のきよめのささげ物と全焼のささげ物と違う手順によってささげられる。それは、雄羊の頭の上に手を置くだけではない、その血を祭司の右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗る。これは、祭司といけにえと同一視し、罪人である自身に死んで、新しく復活した者としての奉仕を象徴するものである。血塗られた耳たぶは、神のことばを聞くために、血塗られた手は神の奉仕に携わるために、血塗られた足は、主の庭を歩くために、すべてが聖別されることを象徴する。今日の私たちは、イエスの血の注ぎを受けている。「ご存知のように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです」(1ペテロ1:18,19)とペテロが語るように、イエスの血の注ぎを耳たぶ、手、足に受け、神の聖なる職務に召し出されている。
そして最後に再び、油注ぎを受ける(30-36節)。これらはすべて出エジプト記に記されたことの想起である(出エジプト28:41、29:4-7、19-28)。聖別のための信仰告白に基づくバプテスマ、霊的な着衣、聖霊の注ぎ、キリストの十字架による聖別、すべてが、私たちを主の祭司とするものを物語っている。
3.任職後のこと(8:30-36)
これ以降、ヘブル人祭司らが世の活動から分離することと、幕屋のために聖別されたこととが、向こう七日間、彼らが会見の幕屋から出てはならない、という命令に象徴される(33節)。大祭司とその子らとは一週間を経て初めて、自らを真に任職された者と見なすことができたのである。また、祭司らに対して規定されたすべてのものは細心に遵守されなければならない。不従順のゆえに死ぬことのないためである。祭司の務めは、非上に重要な責任を伴う。というのもそれを担う者は、良くも悪くも国民に影響をもたらすからである(2コリント10:5、1ペテロ1:2)。私たちはただ救われたというのではない。主の祭司として神に選び分かたれ、諸国の民のとりなしをするために立てられている。かつては、奴隷であったのに、今や恵みを受けるのみならず、大きな責任を与えられていることを覚えて、感謝しつつ歩ませていただくこととしよう。