出エジプト記15章

1.イスラエルの勝利
1-18節は、一般にモーセとイスラエルの歌と呼ばれる。1-12節は出エジプトを扱い、13-18節は将来のカナン征服を扱っている。
イスラエル人たちは、エジプト人の死体が海辺に浮かんでいるのを見た。それは、自分たちが神の奇跡によって開かれた道を歩き通し、神の栄光の力と守りを経験したことを意味した。だからまず彼らは「主はファラオの戦車と軍勢を海の中に投げ込まれた。選り抜きの補佐官たちは葦の海に沈んだ」(4節)と歌う。そして、三つの事柄が賛美される。
第一に「主に向かって私は歌おう」と、神の圧倒的な勝利がたたえられる。ファラオは、イスラエルを連れ戻すために、えり抜きの戦車600とエジプトの全戦車を、それぞれ補佐官をつけて、自ら率いたが、神の御手にあって、その勢力は無に帰せられた。確かに主は、私たちの救いであり、力であり、助けである。彼らは、主が自分たちのために戦われることを体験した。主が自分たちに代わってエジプトと戦われたことを見た。主の右の手の力強さ、主の大いなる威力、その素晴らしさを見た。だから主に向かって歌う、主を称える、となる(1-6節)。
次に、主は敵の反抗をものともしない。敵の思いを無にするお方である(9節)。だから「主よ。神々のうち、だれかあなたのような方があるでしょうか」(11節)と続く。イスラエルの神は、他の神々に比べ秀でているというのではない。イスラエルの神だけが、この地の唯一の支配者であり、絶対者であり、全能者であるという信仰の告白である(7-11節)。
そして最後に、主は贖われた民を守られるお方である(12-16節)と、未来の戦いと、ヨルダンを渡るまでの守りを期待する。この歌は、以上のように三連構成となり、最後のエピローグ(17,18節)は、主の永遠を称えるものとなっている。
私たちは歌を歌う生き物である。だが、その歌は誰に向けてなされるものであろうか。讃美歌というものがある。それは、いわば神が自分のために戦ってくださった、自分を救ってくださったことを歌う歌である。後にヨハネは、この箇所を下敷きに黙示録の15章を書き上げた。黙示録15:2では、信仰にあって勝利した人々がガラスの海のほとりに立ち、モーセの歌と子羊の歌を歌っている。そこでは、主の救いが褒め称えられ(1-10節)、主の栄光があがめられている(14-17節)。ローマの圧政と迫害に苦しむユダヤ人に対して、新しい出エジプトの幻が描かれている。

2.荒野の旅の始まり、マラでのつぶやき
 主はエジプトの軍隊を打ち破られた。しかし、それですべてが終わったわけではない。いよいよ荒野の旅が始まる。そして新しい危機、いわゆる水と食料問題が生じた。シュルの荒野は、シナイ半島の北西部と考えられている。彼らはその地をさまよい歩き、水を見つけることができないで、とうとうマラへやってきた。マラは、スエズ湾より数キロ内陸に入った、アイン・ハワーラの泉であるとも、またより北側のアイン・ムーサの水であるともされる。ほとんどの掘り抜き井戸は鉱物塩のせいで、苦みがあり、その水質は悪く飲めるようなものではなかった。
民がつぶやいた。「私たちは何を飲んだらよいのですか」(24節)。一つ一つの状況を見れば、民がつぶやく思いも理解できないことはない。しかし、なぜ民はモーセと一つになり、神の助けを求めようとしなかったのだろうか。なぜ同じ無力な人間である指導者に不平を鳴らしたのだろうか。しかしそれが人間の霊的な暗さなのだろう。神の素晴らしさを経験しながらも、その高嶺からいつでも転げ落ちやすい。神を仰ぎ続けることができないのである。「ファラオの戦車も軍勢をも海に投げ込まれた主よ、今私たちは水に欠乏しています、水を与えてください」という祈りにはならない。そして神ではなく人間を頼りにし、その人間が頼りにならなければ、不平を鳴らし、怒りをぶつける現実がある。神を経験しながら神に心が向かない霊的な暗さがある。しかしそれは、モーセを指導者に立てた神に対する不平であった(1コリント10:11)。
一人神に叫ばざるを得なかったモーセの気持ちはいかばかりかと思うのであるが、主の言葉が優しい。「わたしは主、わたしはいやす者である」(26節)。目に見えない神を覚え、神の業を呼び求める、それが教会の力となることを覚えたい。

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