1.日常生活における道義心(23:1-9)
23章は、まず、訴訟において道義的であることが勧められる(23:1-9)。証言を求められる時は、多数の圧力によって不当な証言をしてはいけない、一方で、同情によって証言をゆがめてもいけない。どちらもありがちなことである。罪人である人間の心はいとも簡単に、力ある者におもねりやすいし、力無き者には過剰なあわれみを施しやすい。自分では公正だと思いつつ、はた目から見ればそうではない、ことはあるものだ。人間は道義性を弁えなくてはならない。
次節もそうである。「あなたの敵の牛やろばが迷っているのに出会った場合、あなたは必ずそれを彼のところに連れ戻さなければならない。あなたを憎んでいる者のろばが、重い荷の下敷きになっているのを見た場合、それを見過ごしにせず、必ず彼と一緒に起こしてやらなければならない」(4、5節)。敵と敵の所有物は別個のものである。まして、無力な家畜に八つ当たりをすることは、人間の道義に反することである。賄賂によって動くことも、また寄留者を虐げることも、すべて人間の道義に反する。人間の罪深い性がそうであっても、神がもともとお造りになった人間は、そういうものではないのだ。イエスは、さらに汝の敵を愛せよ、と語り、神のかたちにつくられた人間が本来どういうものなのか、教えられている(マタイ5:44)。私たちは、高いセルフイメージ、神に造られた、神の子としてのイメージをしっかり持って、当たり前に道義的に歩みたいものである。
2.宗教行為における道義心(23:10-19)
続く10-19節は、いくつかの宗教暦、祭儀的な規定となっているが、これもその根底に先の道義心を働かせるべきこと示されている。実際、安息年(10,11節)、安息日(12,13節)の規定は、七年に一度、七日に一度休ませるものであるが、休むこと事態に、「弱者に息をつかせる」意味がある。安息年、安息日の重要さは、安息にあり、それは休ませることにある。休日に対する上司の部下の配慮も同じである。まして、キリスト者の聖日礼拝は、礼拝儀式を守ることよりも、礼拝において安息を得る、「息をつく」ことが大切なのである。
また、三大巡礼祭である、種を入れないパンの祭り(15節)、刈り入れの祭り(16節)、収穫祭(16節)が規定されている。神は、民が休むのみならず、ご自身の善であることを覚えて、神を喜ぶ時を持って欲しいと願っておられる。週に一度の礼拝をクリスチャンが守るのは、世の喧騒の流れの中から抜け出て、神との安息を楽しむと同時に、神の守りと祝福を覚えて喜ぶ時を持つためでもあり、そういう意味では、私たちの生活には、常に、神のもとに集い神のもとで癒され、喜ぶ、そのようなリズムとメリハリが必要であろう。人生無目的に、あるいは自己実現のために、毎日を費やしていくのではなく、自分の思いを越えた人生を導き祝され、神を覚える日を特別に設けていく。そして退き、癒され、力を与えられ、また、普段とは違う喜びで心をリフレッシュされてまた出て行く、そんな歩みが必要であろう。人間というのは、そういうものなのだ。
3.申命記的約束(23:20-33)
最後に、20-33節は、神との契約を交わす祝福が語られる。第一に、神に対する従順とその結果、すなわち、私はあなたの敵には敵となり、あなたの仇には仇となろう(20-23節)。第二に、まことの神への礼拝とその結果、すなわち、主はあなたのパンと水を祝福してくださる。私はあなたの間から病気を除き去ろう(24-26節)。第三に、神とのみ契約を交わすこととその結果、すなわち、増え広がって、この地を相続するというものである。
私たちが神を認め、神に従っていく時に、神が私たちの味方となってくださる。また神が私たちの生活と健康を保障してくださる。さらには、神が私たちの住まう所を備えてくださる、という。キリスト教信仰はご利益ではないのだが、ある意味で、日本人が毎年、神社仏閣で祈願するような健康、多産、長寿などについて、きちんと保障してくださるという。もちろん人生はそんなに単純なものではなく、神の祝福の意味も物質的なものよりも霊的なものが重要であることが漸進的に明らかにされるのではあるが、神は天地創造の神であり、石や木で刻んだ像とは違う。全能の力ある神である。私たちは神に強要し、神に命じることはできないが、神が私たちの祈りに、御心のままにすべて良きものを備えられることも間違いないことである。まことの神を恐れ、拝む時に、必要な助けがあることをこそ信じ、従っていく者であろう。