詩篇106篇

105篇 契約に忠実な神

おはようございます。この詩篇では、アブラハム契約に誠実であった神が讃えられています。神の誠実さ、これが私たち信仰者の一番の支えであり、原動力というべきものでしょう。神の誠実さを覚え、礼拝と宣教と従順の歩みを守る一日でありたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.文脈と背景

新共同訳聖書では、詩篇104篇の最後の一節が二分され、後半の「私の魂よ、主をたたえよ。ハレルヤ」は105篇の冒頭に寄せられている。これは、105-107篇をハレルヤ詩篇集として扱おうとする七十人訳の解釈を取っている。新改訳2017は、そう取らない。

さてこの詩篇は、1歴代誌16:8-12の契約の箱を搬入する際の歌にその一部(1-15節)が引用されていることからすれば、この詩篇は歴代誌よりも古いものと考えられる。そしてすでに学んだように、歴代誌は捕囚帰還後の作であり、この詩篇が、次篇と対になっていることからすれば、それは明らかに捕囚から帰って来て、神殿祭儀を復興したイスラエルの民に対して、ダビデ時代の古き詩篇を引用しつつ書かれた、と言えるのではないだろうか。

2.神の誠実さを思う

具体的にその内容は、アブラハムに始まる族長時代から、出エジプトそしてカナン征服までに至るイスラエルの歴史を回顧するものとなっている。そしてその前後を、アブラハムへの契約に対する主の誠実さを訴える節(8節、42節)で囲むものとなっている。

つまり初めは、宣教と礼拝への呼びかけである(1-6節)。そしてすべてはアブラハムの契約から始まった、と語り始める(9節)。アブラハムが契約を受けた時は、わずかで、寄留の他国人であった(8節)。イスラエルは国から国へと渡り歩く流浪の民に過ぎなかった(13節)。神が彼らを守られ生きながらえさせてくださった(15節)。神の不思議なご計画で、まずヨセフがエジプトに遣わされ(17節)、その民を大いに増やされた(24節)。それは同時に、奴隷とされる試練を経ることでもあったが、神は、解放者モーセとアロンを遣わされた(26節)。そして神は、奇しい御業の数々をもってイスラエルを奴隷状態から解放された(27-38節)。荒野の放浪の旅の中でも、神は素晴らしい御業をもってイスラエルを支えられた。こうしてイスラエルは、約束の地に入り、神の恵みの中にあって増え広がった。こうして神は、アブラハム契約にことごとく誠実であった(42節)、と締めくくる。

3.神の誠実さに応答する

最後に、詩人は、神への従順さの応答を語る。この神の誠実さによって達成されたイスラエルの守りと祝福は、「主のおきてを守り、そのみ教えを保つためである」(45節)と。

詩人は、先に神の救いのみ業を、自分たちの国以外に宣言することを勧めた。宣教は神の私たちに対する誠実さの伝達である。また「主に歌え、主にほめ歌を歌え」(2節)と、礼拝することを勧めている。毎週日曜日、私たちは礼拝に集い、そこで一体何をしているのか。賛美歌を歌う、説教を聞く、献金をささげる、その一つ一つの儀礼行為を形で終わらせず、神の奇しいみわざをほめ歌い(2節)、神を誇りに思い(3節)、いっそう神の御力を慕い求める(4節)時とするのである。そして最後に詩人は、主への従順を勧める。順序に注意すべきだろう。私たちの従順が先なのではない。神の誠実さへの応答として従順がある。

私たちは神が何をなさっているかに注意深くあらねばならない。というのも神は私たちのためにイエスと契約を交わされている(マタイ26:28、ヘブル8:8-13)。神は誠実なお方である。しかしヨセフがそうであったように、その誠実さを感じることができない、忍耐を試される時もあるだろう(19節)と。だが、詩人のように、私たちもイエスの復活から、今日に至るキリスト教の定着を巡らし、神の誠実さを心から讃え、主のみこころが成るまで主のみ教えに堅く立ち、礼拝と宣教と従順の歩みを守りたいものである。

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