イザヤ書

1章 現状に対するメッセージ
おはようございます。本日からイザヤ書に入ります。昨日、雅歌の終わり方は、預言書に続く暗示的なものであることを最後に触れました。実は、雅歌は「愛の賛歌」でありつつ、完全な愛を求めて終わっています。イザヤ書にその答えを探ってみましょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.イザヤ書について
 イザヤは、この書が、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に見た幻であると語る。聞いて書き留めた幻ではない。見た幻である。雅歌では「香り」が、繰り返し意識されていた。香りは親しさを暗示する。愛は体臭を感じる距離である。しかし、「見る」は、より距離感があって、客観的である。イザヤがこれから語るメッセージは、民の霊的状態について、神の客観的な評価でもある。そのような意味で、イザヤ書は、1世紀の7つの教会に対する神の評価と悔い改めを促すメッセージで始まるヨハネの黙示録と同様の書き方をしている。それは、まず、南ユダ王国の民に対する評価から始まっている。
 ユダ南王国は神が選び育てた民である。しかし、今や立派に成人し一つの国を形作ったものの、彼らは、その生みの親を見捨てた放蕩息子に等しい。その結果は逆戻り、ユダ南王国は繰り返し外国の侵略を受け、BC701年アッシリヤが侵略した時(2列王26章)には、その46の都市が陥落し、残された首都エルサレムにも脅威が迫っていた(8節)。そのような国難にあって、国民は、犠牲祭儀を盛んにし神の守りを仰ごうとしていた(11-15節)。しかし、神はそれに嫌悪を感じている。なぜなら神が求めているのは、犠牲動物ではなく、父を見捨てた事実を認め、父に立ち返る、砕けた真実な心だからである(18-20節)。指導者も国民も、悪を捨て、誠に立ち返る心を持つことだからである。
2.神の衷情
 預言者イザヤが神の代言をしている。かつてユダ南王国は、イスラエル王国として国威を盛んにしていた。それは、まことの神に信頼し神に生きる唯一の国であった。その国の在り方には、神の正義と公正さが証しされていた(21節)。それが今や、神を見捨てて、不信と不道徳、腐敗と殺人の宿る、嫌悪すべき国となってしまっている。
 嫌悪したものを見捨てる、これは世の常である。嫌悪したものを矯正するように打ち叩き従わせる、この世にありがちなことである。しかし嫌悪したものに、忍耐を示し、必要な助けを与えながら、完全に回復させるように関わる愛の態度は、神のものである。私たちが、神の悔い改めのメッセージに慰めを見いだすとしたら、この点である。単に責められるだけで、人は変わることはできない。いつも手厳しい批判にさらされるだけであるならば、人は萎縮し、自分の愚かさに素直になることはできない。しかし、悔い改め、仰ぐ者あらば、これに身を傾け、いつもと変わらぬ愛を示すお方であればこそ、人は自分の愚かさに素直にもなり、それを認め、そこから変わる決意もできるだろう。主を憎んではならない。主を捨ててはならない(28節)。むしろ、人の良い志に熱心な、愛の神がおられることを覚え、これを建て上げてくださる神に立ち返ることなのだ。

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