イザヤ書20章

20章 神に従うことを選び取る
おはようございます。人の世にあっては、全く想像もしないことが起こるものでしょう。いつも、物事が計画したとおり、考えたとおりに進むとは限らないもので、今回のコロナ禍は、まさに、そのような人生の予測不可能性を教えてくれる者であったと言えます。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.13-23章の背景
BC721年イスラエル北王国が陥落した後も、パレスチナは完全にアッシリヤの手に陥ったわけではなく、様々な諸小国が反抗を繰り返した。そこでアッシリヤの王サルゴン2世は、BC720年、パレスチナ南部のガザ、ラフィア、そしてBC717年、パレスチナ北部のカルケミシュを攻撃し、占領した。するとエジプトの第二25王朝のピ・アンキがパレスチナの小諸国を全面的に後援し、反アッシリヤ同盟を組織させ、アッシリヤに謀反を起こさせるように仕向けたが、アッシリヤ軍は、BC713-712 にかけてユダ南王国、エドム、モアブを降伏させ、BC711年、パレスチナ南部のアシュドデのみならず、ギベトン、エクロン、ガテを占領するのである(1節)。
まだ完全に占領されず、国の体裁を辛うじて保っていたユダ南王国の人々に、イザヤは神のメッセージを伝える。しかし、言葉ではなく、人々の前で裸になり、裸足で歩く行動によってである。これを行動預言と呼ぶが、かつて主の預言者たちはよくこの手法を用いた。たとえばエレミヤは、人々の目の前で土の瓶を砕いて、ユダ南王国が砕かれることを預言した(エレミヤ19章)。またエゼキエルも、左脇を下にして390日、右脇を下にして40日横たわり、それによって捕囚の刑罰の苦しみに一定の期間があることを預言した(エゼキエル4:4-6)。これを「行動預言」と呼ぶが、それによって人々は神のことばに注目させられたのである。そしてイザヤは、人々の耳目を集めるその異様な行動を通して、エジプトやエチオピアの滅亡を預言し、エジプトに助けを求める愚かさを語った。だが、自分たちは弱くとも、自分たちを後援する強大国エジプトの滅びなど、誰にも受け入れられることではなかった。
2.神の言葉の確からしさ
イザヤの預言は、BC669年アッシリヤの王エサル・ハドンによって下エジプトが、BC663年にアシュール・バーン・アプリによって上エジプト(エチオピア)が占領されることによって成就した。しかしイザヤが身をもって3年間語ったことばを、当時の人々は誰も受け入れようとしなかったのである。
残念ではあるが、人には神のことばを受け入れられない霊的な鈍さがある。どんなに目に見える形で、わかりやすく示されても、気づかない霊の頑なさがある。いや、語られていても、聖書という形で与えられていても、それに心を向けようとしない愚かさがある。神のことばにはいのちがあって、これを求める者を裏切ることがない。しかし人の心は何よりも真っ先にそこへ向かおうとはしない。だが神のことばを大事にし、これに聞き従うことは、捕虜としての辱めを受けない道である。有力な人ではなく、神をこそ拠り所とする人生を歩むことである。目に見えるところだけで物事は動いているわけではないのである。

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