エステル記6章

6章 神による大どんでん返し

<要約>

おはようございます。不思議なものです。物事は、人の能力や策略によらず、ただ神の目に見えざる手による、ということを教えられるところでしょう。どんなに策略を立てても、神がこれを阻止することがある、私たちの希望ではないでしょうか。目に見える現実の世界だけに目がへばりついていたら、きっとそこには希望はありません。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.眠れなかった王

その夜王は眠れなかった。しかし、これもまた神の摂理によるものであった。ヘブル語の直訳は、「眠りが逃げた」であり、ギリシア語のエステル記(外典)では、「主は王から眠りを奪った」となっている。私たちの日常的な出来事一つ一つが、神の支配にあることを伝えている。その晩王は、もはや無理に寝ようとはせず、自分の治世の記録を確認することにした。「記録の書」は国家に貢献した者を記録するものである。王はその記録を読ませ、耳を傾けながら、自分のいのちを救ったモルデカイにふさわしい恩賞を与えていなかった重大な不手際に気付かせられる。即刻、王は何かすべきである、と考えていたところに、ハマンが現れた。

ハマンはおそらく、一日で高さ25メートルにもおよぶ柱を建てるために、それこそ大変な突貫工事を指示していたのであろう。彼もまた自ら眠ることをあきらめ、すべての段取りを整え、王との面会を誰よりも先に求めていた。ハマンは、王の前に通されるが、全く考えもつかなかった相談を受けるはめになった。王が栄誉を与えたい者にはどうしたらよいか、という。能天気のハマンは、それは自分のことであると考えた。そこで、自分が願うとおりのこと、つまり王と同じ地位に自分があることを印象づける提案をした。多くのものを所有していたハマンにとっては、名誉が必要なことであった。ただそれは大変な勘違いであった。彼はまさに手をかけて殺そうとしていた人物に、王の栄誉を与えるように命じられるのである。

2.神の逆転

王は二人の衝突を知らなかったようである。しかし町の広場にいた庶民には、これまでの経緯からも、面目丸つぶれのハマンの様子が見て取れたことだろう。モルデカイも、王も、ハマンの悪を正そうとしたわけではなかった。しかし、ハマンが何かに退けられたのは確かなのである。

ただ、ハマンが犯した間違いは、誰にでもありうる。多くの失敗は、高慢さの結果である。イエスは、「自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」(ルカ17:10)と教えられた。私たちは、神に造られた、神のしもべに過ぎない。全ての栄誉は神に帰せられるものである。私たちは自らの働きが事の大小を生み出したと思いやすいものであるが、その働きを祝されるのも神である。実際は、神のあわれみによってただ栄誉ある機会を与えられたに過ぎない。だから栄誉は神に帰さなくてはならない。

モルデカイは、王の栄誉を受けると、自分の持ち場へと戻って行った。実にクールである。一方、ハマンの方は完全に自尊心を傷つけられて敗北感に満たされている。しかも、彼の妻も、彼の助言者たちも、極めて冷たい。まるで自分の夫でも、仲間でもないかのような言い方である。ハマンは、多くの家族を誇ったが、それは単なる数の問題であった。彼を支え、共に苦しむ家族ではなかったのである。何が幸せで何が不幸であるのか、また物事を正しく導く神の摂理の確かさを覚えて歩ませていただきたいものである。

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