エゼキエル書20章

20章 主の安息を守り回復する

おはようございます。繰り返されることばに、赤線を引いてみましょう。神が私たちの心に留めて欲しいことばが、心に響いてくるはずです。そして実行しましょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.安息日を汚す

「第七年の第五の月の十日」は、BC591年の7-8月の頃と思われます。長老たちは、捕囚後のこと、あるいは捕囚の期間について、神のみこころを聞きたい、とエゼキエルのもとにやって来ました。エゼキエルは、神のことばを伝えますが、それは、イスラエルの背教の歴史を振り返るものです(5-32節)。出エジプト(5-9節)、荒野(10-26節)、カナン入植(27-29節)、エゼキエルの時代(30-32節)に至るまで、イスラエルはずっと偶像礼拝と神への反逆を繰り返してきた、と。

この反逆で注目させられるのは、「安息日を汚した」という繰り返しです(13、16、21節)です。神は言います「わたしはまた、彼らにわたしの安息日を与えて、わたしと彼らとの間のしるしとし」た、「安息日を聖なるものとせよ」と。しかし実際のところ彼らは、モーセを通して伝えられた神のことばを信頼せず、エジプトにいた生活習慣のなせるまま、安息日にもマナを集めようとして、罰せられました(出エジプト記16章)。安息を守ることは、神を信頼する民としてのしるし、証であったのです。彼らはその新しい生活習慣が、諸民族に対するしるしとなるまで、40年の荒野の訓練を受けた、と言うべきでしょう。

そのような意味で言えば、今日のキリスト者がどれほど主に与えられた安息を守ることについて、それを自らの「しるし」としていることでしょうか。それ以外の旗印を掲げて教会に人を惹き付け、集めようとする虚しさに、私たちは気づかなくてはなりません。「人は、それらを行うなら、それらによって生きる(11、13、21節)」と繰り返される、神の意思に私たちは注目すべきです。すべては主が備えられるもの、主の恵みによるものです。まさにその信仰によって教会が注目されることこそ、神の願うところなのです。

2.わたしの名のために

しかし、イスラエルの歴史はそうではなかったのです。カナン入植時代、彼らは異教のカナン人の宗教、習わしに従い、神の民としての独自性を失っていました。つまり出エジプト後起こった新しい世代も、モーセの言うことに聞かず、天来のマナの一部を採取できない七日目のために残しておいたり、七日目に探しに出かけて何も見つけられなかったりした人々を超えることはできなかったのです。いやむしろ彼らは積極的にその土地の習俗に倣おうとさえしました(27-29節)。そしてさらに、エゼキエルの時代の人々も、先祖を習うことにおいては同じでした(30-32節)。

にもかかわらず、神は、第二の出エジプト、バビロン捕囚からの帰還を計画されます(35-36節)。そしてなおも、ご自分を主と認めていくご自分の民を興そうとする熱意を示されるのです(38節)。

注目すべきは、神が裁かれるのは「あなたがたの悪しき生き方や、腐敗した行い」によるのではない、とすることです。ただ「わたしの名のために」裁きも祝福も行われる、と言い切る点です(44節)。神は祝福の神であり、恵みの神です。その神のご性質のために、神は、頑迷に何世代も同じ過ちを繰り返すイスラエルの民を愛し続け、またこれに関わり続けてくださる、と言うのです。この神の愛がわかる信仰者であればこそ、「自分の身を汚した自分たちの生き方と、すべての行いを思い起こし、自分たちの行ったすべての悪のゆえに、自分自身を嫌うようになる」(43節)という感覚に至るのです。そしてそれが聖めの人生の第一歩です。真に神の前に自分の現実を悟らされ、遜らされた者は、ただ自分の救いの完成を願って精進するでしょう。そして主との安息を何よりも求めるはずです。

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