エゼキエル書21章

21章 火と剣によるさばき(20:45-21:32)

おはようございます。ヘブル語が読めると、聖書が更に面白くなります。時間をかけてヘブル語を学び、辞書引き引き聖書が読めるようになる老後も楽しいものでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.森の火事のたとえ

ヘブル語の聖書では、20章は45節で終わり、そこから次の21章となっています。意味段落で区切れば、20:45-21:32が一区切りで、21:1-32は、20:45-49で語られたネゲブの森の火事のたとえを説明する三つの預言(8-17、18-27、28-32)となるわけです。

告げられていることは、神の火が「南から北まで」(20:47)焼き尽くす、つまり神の裁きがイスラエルの国全体に及ぶことです。21章では、「神の火」は「神の剣」と言いかえられて、同じように「南から北まで」(21:4)すべての者に襲いかかるとされています。

エゼキエルは、そのような裁きのために、「腰が砕けるほど激しくうめけ」(6節)と命じられるのです。口語訳は「心砕けるまでに嘆き」、新共同訳は、「腰をよろめかし、苦しみ呻け」です。これもまた行動預言、パフォーマンスによる預言の一つですから、イメージ化すれば、心が潰れるほどの悲しみのことを言っている、と言えます。

9節から17節は、括弧でくくられています。それは、この個所が散文体ではなく詩文体だからです。しかし実際の所、詩文体として形が整っているのは、最初の2行(9、10節)だけで、後半は、写本上の本文の痛みが激しく解釈も困難であるとされています。このようなヘブル語聖書のそのものの状態を理解すると、聖書は、神の救いを語り伝える書でありながらも、何千年もの歴史の中で、その復元が一部難しい摩耗した部分のある古書なのだ、と改めて思うところがあります。けれどもそれは、神への信仰を揺るがせるほどのものではありません。聖書には、確かに一部、民数記3章に見られるようなレビ人の人数の合計が矛盾しているところもありますし、この個所もそうでしょうが、本文が摩耗している部分もあります。けれどもそれは、神の救いのメッセージを伝える「誤り無き神のことば」であることを否定するものではありません。近年「誤り無き神のことば」という表現には、無知頑迷な根本主義者のようなイメージがあるとし、これを嫌う人々もいますが、私はあえて、牧会的な立場から使い続けたいと考えています。

2.籤は神の決定による

二つの道を備えよ。その二つの道はともに一つの国から出るようにし、町に向かう道の始まりにそれぞれの道しるべを刻みつけよ」(19節)。バビロンがやってきて、エルサレムを攻めるかそれともアラムにするかの分かれ道に立つことを意味しています。ラバは今日のヨルダンのアンマンです。ネブカドネツァルは、エルサレムかラバのどちらに向かってこれを攻めるべきか占いをしたわけです。「彼は矢を降り混ぜ、テラフィムに伺いを立てて、肝を調べる」(21節)。当時の占いの方法です。矢筒に人や場所の名前を記した矢を入れ、降り混ぜて、一つの矢をくじ引きし、テラフィムに伺いをたてるわけです。テラフィムは、小さな人間の形をした先祖の神々を象徴する像であったとされ、おそらく死者からの託宣を聞く手段として用いられたのでしょう(創世記31:19、30)。そして最後に、犠牲動物の肝臓または内臓の色や形を調べました。こうした古代バビロニヤの占いによって、攻撃目標が決まったわけです。しかしそのような結果を出したのは神ご自身でした。

エルサレム滅亡の際に、傍観してエルサレムを見捨てたアンモン人に対しても、神の裁きが及ぶことが告げられます(28-32節)。バビロンの攻撃は、南から北へと舐めつくす火、打ち滅ぼす剣となったのです。大切なのは、バビロンの攻撃も、バビロンが攻撃目標を決めた籤も皆、神の御業であったということ。神を侮り、敵にすることの恐ろしさがあります。神を恐れ、神のみ言葉の権威を認めて、従う信仰を大切にいたしましょう。

“エゼキエル書21章” への2件の返信

  1. 福井先生

    いつも有難うございます。
    質問があります

    エゼキエル21:30剣をさやに収めなさい。
    ヨハネの福音書18:11剣をさやに収めなさい。
    ここは新改訳では全く同じ語句です。
    イエス様がエゼキエルを引用しているのでしょうか。
    としたら、その意図は何でしょうか。

    お忙しいところ恐縮です。
    もしお時間があれば教えていただけると有り難く存じます。

    清水明子

    1. 基本的に旧約聖書は、ヘブル語、新約聖書はギリシャ語で書かれておりますから、言い回しが似ているということは言えると思います。またエゼキエル書は、後半の解説で、さらにわかってくると思いますが、ヨハネの黙示録にかなりその表象が引用されています。イエスも、エゼキエル書は、よく読まれたことでしょう。そのような意味で、エゼキエル書が新約聖書のメッセージの中に多々重なってくることはあるのですが、あるいは、清水さんが考えておられるようなことが起こっているかもしれません。ただ聖書解釈の原則は、自然な文脈を押さえることですし、また旧約引用については、はっきりとそれとわかることはそれと受け止めていくこと。微妙なものは、微妙なままに受け止め、踏み込まないことかと思ったりです。わからないことはわからないままに、小脇に抱えて聖書を読めば、ある時、はっきりすべきものははっきりしてくるはずです。ともあれ、日本人にとって旧約聖書的バックグラウンドや知識の蓄積がないというのは、実に聖書を読む時のハンデに近いものがありますね。

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