エゼキエル書24章

24章 さびた鍋のたとえ(24:1-14)
おはようございます。もっと物事の先を見通す力があれば、と思う人は多いはずです。しかし、万能ではないという謙虚さの中で生きるところに、私たちの生きる道があります。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.エルサレムの終焉
1-23章では、エルサレム(ユダ南王国)に対する主のさばきが予告の形で記されていました。この24章では、いよいよそれが現実となってしまったことが記録されています。そのような意味で、昨日の23章が、16章の繰り返しであり、姉の運命の教訓に学ぶことを語り伝えていたとするのは、文脈的に自然な流れであったと言えます。
第9年の第10の月の10日は、ゼデキヤの治世の第9年です(2列王25:1)。実際の西暦では、BC588年1月15日で、この日、バビロンの王ネブカドネツァルがエルサレムを攻撃したのです(2列王25:1、エレミヤ52:4)。
エゼキエルは、エルサレム崩壊の悲劇を、煮えたぎる錆ついた鍋にたとえています(1-14節)。「鍋」はエルサレム、「火」はバビロンの包囲攻撃、「肉片」はエルサレムの住民を意味します。このたとえで二つのことが語られています。一つは捕囚です。「一切れずつそれを取り出せ。くじで決めてはならない」(6節)は、597年、かつてエゼキエルが連れ去られた際の捕囚では、くじ引きで連れ去られる者が決められたので、それを受けているのでしょう。今回はくじ引きの余裕もなく、無差別に、多くの者がそのまま連れ去られたのです。二つ目に、エルサレムの滅亡が語られます。もはや神は、一切れずつ取り出すのではなく、鍋を空にして、なべそのものを溶かす、と言うのです(11節)。しかしそのように徹底した裁きですら、神の期待通りの結果にはならなかった(12節)というわけです。
2.突然の終焉
次に、これまであまり語られることもなかったエゼキエルの家族のこと、エゼキエルの妻の死が語られます(15-24節)。「一打ちで」、リビングバイブル訳は、「急死」と訳しますが、実に突然のこと、心の準備もないままに妻に先立たれてしまったのでしょう。そこでエゼキエルは、「嘆くな。泣くな。涙を流すな」(16節)と命じられています。そして「喪に服してはならない」、いつも通りにしていなさいと言うのです。当時は、嘆きごとがあれば、頭のターバンを外して、ちりや灰をかぶる風習がありました。そのようにしてはならない、ということでしょう。また、苦悩にあっては履き物を脱ぎ捨てるのですが、「足に履き物をはけ」と。さらに「口ひげをおおう」は、ツァラアトの病に侵された者がする行為で、不名誉のしるしでしたが、そのような行動をとってもならない、というわけです。そして、「人々からのパンを食べてはならない」というのは、いわゆる通常の食事、嘆く者たちの葬式の食事を食べるな、ということです。
それは捕囚仲間の注目を集めるためでした。というのも、妻の死の悲しみに優って、彼が語らねばならぬ、神からの緊急のメッセージがあったからです(19節)。妻は夫にとって最も大事な存在でしょう。イスラエルの民にとって最も大事なものである聖所が、今失われようとしているのです(21節)。それは、そのために悲しむ余裕すらない、突如の嵐のような災いとなって襲い来る、というわけです(23節)。
25-27節は、主のさばきの預言をしたエゼキエルの働きを締めくくるものです。彼の預言がことごとく成就することによって、彼の預言活動も1つの節目を迎えることになります。誰もが彼を、まことの主の預言者であると認めるようになり(申命18:22)、エルサレムから逃れて来た者たちが、彼のもとを訪れることでしょう。そこでエゼキエルは、主の慰めと回復のメッセージを語るようになります(27節、33章以下)。しかし、事が成就する前に、悟る者、謙虚に神の御心を探りながら生きる者でありましょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です