エゼキエル書26章

26章 ツロに対する宣告

おはようございます。神の裁きを受けながら、再生されるエルサレムに対して永久に廃墟とされるツロ、これまでのメッセージの違いがあります。神は誠実なお方です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.周辺諸国への裁きの宣告

この26章から28章までがツロに対する預言です。ツロはパレスチナ北部の地中海岸沿いに位置するフェニキアの商業都市です。

第11年は、エホヤキンの捕囚から、つまりゼデキヤの即位後11年でしょう。「その月の一日」は、おそらく第11の月の一日のことで、エルサレム滅亡は第12年の初期と考えられているので、B586年早々、エルサレム陥落の数か月後になります(エレミヤ52:5、12)。神のことばがエゼキエルに与えられますが、その内容は、ネブカドネツァルの包囲とツロの完全な荒廃を預言するものでした。

エルサレムが陥落した時に、ツロは、それを喜びました(2節)。というのも、当時のエルサレムは、国際通商路に位置し、独自の通行税を課し多くの収入を得ていましたので、その利権が、自分たちのものとなったからです。もはやエルサレムに集中していた財は、北方のツロに直接流れ込み、ツロが豊かになるのです。エルサレム陥落の知らせに、捕囚の民は心を痛めましたが、ツロはこれを密かに喜んだのです。

しかし昨日も言いましたように、神の裁きは、神の正しさを示し、エルサレムを聖めるためのもの、エルサレム憎しと神の怒りの鉄槌を下すものではありませんでした。神の意図を理解しないツロの態度を、神はお喜びにならなかったのです。

人は、世の興亡を見ながら、あれやこれやと自分のチャンスを考えるものでしょう。商売敵が敗れ去れば、それを機に、自分の貪欲な夢を馳せることもあるものです。しかし、神は人の心を見るお方であり、そのような薄汚い心がこの世に蔓延ることなどお喜びにはなりません。神は、天と地を創造された時に、これを美しく仕上げ、これをよしとされ、そこに人を置かれました。人は当然、その美しい大自然に相応しい心をもって、生きるべきものでしょう。神は機会に乗じてエルサレムから略奪するツロに裁きを宣告されます。

2.網干し場となる

ツロは、海の中の岩島の上に建設された貿易の町として栄えていました。しかしその町は、徹底的に破壊されて、ただの岩だらけの場、裸岩と化してしまうと言います。新改訳第三版で「網を引く」と訳されたミシュトアハーが、2017では「網干し場」と修正されました(14節)。どちらの意味にも取れることばですが、裸岩にするという表現と合わせて考えるなら、「網干し場」という訳語の方が、意味の通じる自然な訳になります。つまり、貿易とサービスで豊かに栄えた町が、徹底的に破壊され裸岩となって、もはや原始的に網を打って漁をする以外に稼ぎの手段のない町となってしまった、ということです。また、ヘブル語で裸岩はサラで、町の名ツロとの語呂合わせがあると言います。いささか皮肉る意味もあるのでしょう。

15節以降、繰り返されることは、ツロとその周辺の国々が跡形もなく破壊されてしまうことです。もはや、それは再生できず、永久に失われるのです。まさに大洪水が、町を飲み尽くし、跡形もなくすべてを押し流していくイメージです(19節)。ですから「豊かな」と訳されたラビイムも「溢れる」という訳の方が良いのかもしれません。ともあれ、永久に滅びるツロに対して、再生されるエルサレム、この対比をエゼキエルは伝えようとしています。神のエルサレムに対する裁きは、神の愛の鞭、人々がこれによって神を知るためのものです。そうであれば、いかなる災いが襲おうとも、神の民は神の御心を思い、へこたれてはいけません。神はあなたを先へ進ませようとしているのですから。

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