エレミヤ書38章

38章 十字架の道を進む

おはようございます。38章は、37章の重複記事と考える説もありますが、別の記事と考えることができます。エレミヤの立場はいよいよ悪くなる一方でしたが、神はエレミヤを守り続けます。神に自分の身を委ねる、信仰に立つ勇気を考えさせられるところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.エレミヤの苦難

エレミヤは、再び投獄されました。神のことばとして、民全体にバビロン軍への投降を勧めたからです。それが生き延びる道である、と(2節)。しかし、エルサレムの首長たちは、それを、民全体の士気をくじき、災いをもたらすものと受け止め、王に訴えます。そして彼らの手に委ねられたエレミヤは、王子マルキヤの穴に投げ込まれてしまいます。それは、書記ヨナタンの家にある丸天井の地下牢(37章)とは別物で、監視の庭にあった、雨期に雨水を溜める穴だったとされます。乾季であったこの時、水はなく、底に泥が溜まっていて、エレミヤはその泥に沈んだのでした。

王宮にいたエチオピア人の宦官エベデ・メレクがこの事件を知ると、彼は、王に訴えエレミヤを救出します。相当長いこと泥に沈んでいたのでしょう。彼は、衰弱したエレミヤの体が綱で傷まないように、着古した衣服やぼろ切れを体に当てさせて引き上げるのです。主に従うことが、このような身に応える取り扱いとなるのは、なんとも理解に苦しむところでしょう。しかし、これも主に従うことの一面です。イエスの服従も、十字架の道を辿ることでした。使徒パウロも、「私たちにはキリストの苦難があふれている」(2コリント1:5)と語りました。実際パウロは、キリストに従うことで、苦しみ、眠れぬ夜を過ごし、飢え、渇き、欠乏の時を過ごしたのです(2コリント11:27)。しかしそこに、慰めも豊かであるとパウロは語っています。苦難に与るとしても、それが必ずしも不幸とは言えないのです。そこがわからないと、天においてキリストやパウロと分かち合うものもないでしょう。

2.ゼデキヤの対応

ゼデキヤ王は、再び救出されたエレミヤを呼び戻し、神の言葉を求めます。しかし彼は、自分に都合のよい言葉を欲していただけで、エレミヤの忠告に聞こうとはしなかったのです。彼に語り掛けられたことは、彼に対する裁きというよりも、彼がその裁きを通して生き延びて、幸せになるために、バビロンに投降を勧める神のことばに信頼することだったのに、です。

もちろん、ゼデキヤの身になれば、バビロンの権力に反逆した自分が降伏した場合、果たしてエレミヤの言うとおりになるのだろうか、という思いはあったことでしょう。しかし神を信じるというのは、神に自分の身を委ねることです。また、首長とゼデキヤ王のやり取りを見ると、彼は王ではあっても、降伏を決断しそれを民に宣言する難しさの中にありました。しかし神を信じるということは、神の側に立つことを意味するのです。ただ神のことばに親しむのみならず、神の約束を信頼し、その実りを期待しつつ、忍耐をもって神のことばに聞き従いたいものです。