エレミヤ書8章

8章 悔い改めない民
おはようございます。「論語読みの論語知らず」と言われるように、聖書を読んでいても聖書のことがよくわかっていないことがあってはならないでしょう。神の言葉にしっかり取り組み、神の祝福を豊かに受ける者でありたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.背信のイスラエルへの警告
 7章から続くエレミヤが神殿で語った預言は、8:3で一区切りとなる。バビロンによる徹底した攻撃は、死者の骨を墓から掘り起こす侮辱的なものとなるのみならず(1節)、生き残った者の人生も絶望の底に陥れる、と言う(3節)。神の処罰は徹底している。
8:4節からは詩文となり、背信を続けるイスラエルの民に対する警告が加えられていく。まず、世の中には道理というものがある。しかしなぜ、人は、ひとたび信仰ということになるとその道理が効かなくなるのか。「空のこうのとりも、神の定めた季節を知っている」だが人はそうではない、と言う(7節)。問題は、教師にある(8節)。「書記たちの偽りの筆」については、種々の議論があるものの、文脈からすれば「論語読みの論語知らず」と言うべきものだろう。教師が神のことばを捻じ曲げ、適切な解釈と適用を失わせているのである。事実、宗教的指導者たちの語るメッセージは、表面的で、霊的深みへいざなうものではない。一人一人を神ご自身に近づけ、主への正しい畏敬をもたらすものではなく、安易な心の平安を語り掛けるものだ(11節)。このような指導者が神の裁きを免れることはない(12節)。
2.来るさばき 
13節以降、来る神のさばきが語られる。一つは収穫のイメージである。イエスを落胆させたいちじくが思い浮かぶところである(マタイ21:19)。大切なのは、神のことばにしっかり自ら向かうことである。偽教師のために、実を結ばないいちじくとなってはならない。激しい敵の攻撃に晒され、勝ち目のない籠城戦になって、もはや毒水を飲み死を覚悟する最期にあって、宗教的指導者たちの偽りと欺きに気づかされるというのは、何と不幸なことであろうか(14、15節)。ダン(16節)は、イスラエル最北端の町であり、バビロン帝国の脅威に真っ先にさらされた町であった。しかしそれは、神の裁きであり、モーセに逆らったイスラエルの民が、燃える蛇によって裁かれたことと同じなのである(民数21:6)。「主は、シオンにおられないのか」エゼキエルは、神殿から神の栄光が立ち去った幻について語っている(エゼキエル10章)。神が私たちから離れ去ることが最も厳しい裁きである。
このように語る、エレミヤにとっても心の負担は大きい。「私の悲しみは癒されず、私の心は弱り果てている(18節)」「私は傷ついた(21節)」エレミヤは決して上から目線ではない。民の一人として悲しみ、嘆いている。ギルアデの乳香は、良い傷薬として用いられた。「医者」は、深い傷や骨折などに外科的な治療を施せる人のことを意味した。大切なのは、神の言葉に向かい合い、矯正し難い罪の深みの中にある自分自身をよく知ることであるし、神のみことばによる癒しを味わいつつ、変えられていくことである。長血をわずらった女が、イエスの衣に信仰をもって触れたように、聖書を読むことだ(マタイ9:20)。

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