エレミヤ書9章

9章 心の割礼
おはようございます。本日は、8章の繰り返しとなる部分です。しかし罪人に対する裁きと否定に終わらず、神が喜ぶことが加えられています(24節)。主を恐れ、主を愛し、今日も主に従います、という気持ちを大事にしたいところでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.語り掛ける神 
「ああ、私の頭が水であり、私の目が涙の泉であったなら、娘である私の民の殺された者たちのために、昼も夜も、泣こうものを(1節)。」今や避けることのできない、エルサレムの滅亡に、預言者エレミヤが嘆いている。それは遠い将来ではなく、差し迫った危機である。その惨状は、いのちといういのちが断ち切られ、しかばねの山となって放置されるものだ。9章は、8:4-9:1に続く嘆きの歌である。そして、どのようにしてこのようなことになったのか、神の声が伝えられる(3-9、13-14、17、22-26節)。
エルサレムの惨状は、バビロンの勢力拡大の野心によって引き起こされたものではない。それは、ユダが神を捨て去ったことへの裁きであると言う。彼らの裁かれるべき状況に注目すべきだろう。というのも、「これら(9節)」と神が指摘することは、決して現代の私たちとも無縁ではないからである(3-6節)。人としての真実さ、誠実さが失われた社会、主を認め、恐れようとしない人の現実、それが神の怒りの原因なのである。
 12節「知恵があって、これを悟ることができる者はだれか」エルサレムが神の裁きを受けて廃墟になることは「知恵ある人」には理解できるはずだ。ホセアも同じような問いを発している(14:9)。しかしそのような知恵ある人は、誰もいない。だからその滅亡は避けられない。13節「主は仰せられる」、17節「万軍の主はこう仰せられる」22節「主の御告げはこうだ」叩き込むように説得してくる主がおられる。主はただ裁きを告げているだけではない。食むように語り掛けている。確かに、愛する子が迷いの道を進んでいるのなら、語らざるを得ない親の心がある。
2.見せかけではなく
しかしなぜ人から真実さ、誠実さが失われるのか。それは、人が知恵、力、富を求めるからではないか(23節)。永遠に自分の手元に留めることもできないもののために、人は、人間関係を粗末にしていく。なんとも愚かしいことであるが、残念な人間の現実がある。大切なのは、その対極に生きること、自分が知恵無き者であること、力なき被造物に過ぎないこと、すべて主の恵みによって生かされている無に等しい者である現実を心得ることである。すべてを整えて、よくしてくださる主を覚え、愛することにある。
26節に出てくる国々は、エジプトを中心に反バビロン同盟を結んだ国々である。割礼の民の大同団結でもあった。しかしそれは、空しい力の誇示となるだろう。つまり形の割礼の誇示の虚しさを語っている。ユダヤ人は割礼をブリット呼んだ。ヘブル語で契約を意味する。しかし、契約とは名ばかりで、それもまた形だけのこと。契約は、難局にあっては最終的に人間的な誠実さを問うものである。悲しみもし、喜びもする神に心を開いて歩もう。

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